見出し画像

自分の感覚を研ぎ澄ますための十日間

2024年5月15日の夜、
何かとお世話になっている友人とお話しする機会を得ました。

星の巡りと体感を照らし合わせて、
これからどうするかを考える場を主催されている方で、
今の私にとって必要なことだと直感したため、
ぜひお話ししたいと場を設けていただきました。


淡路島に来てちょうど二十日が経った日だったのですが、
ここに来るまでの経緯も含めて
自分は今何をしているのかを問い直すことができました。

4月を振り返る


私はここしばらく、
「本よりも現実を」、
「師匠の言うことを鵜呑みにするのはやめて、
 今現在の自分から発して、ものを考えよう」
という気分になっていたので、
少なくとも二年ほどは、
師匠の本に甘えに行くことを控えていました。

それが、実家で一月半以上過ごすことになって、

過去の、幼少期から二十年余を過ごしていた頃の
焦りや不安や疲弊や怒り…と言った、
「もう嫌というほど味わったから二度と御免蒙りたい」
という類の感覚を再履修する期間となり、

当時(後半)の私がすがった師匠の本を、
再び紐解くことになったのですが、
ここで思わぬ収穫があったんです。

過去十年間の修行期には、
「本に書かれていることを再現するには」ばかりで、
自分の人生や現在の感覚との間に
明らかな隔たりがあったのですが、

今回改めて、
過去を再履修している感覚と共に読むと、
「この本に書かれていることを、私も経験している」
という事実に気づくことができました。

「縁尋の機妙」


人間の縁というものの不思議なことは、
とても計り知るべからざるものがございます。
たまたま、そういう縁が次第に広がりまして、
これを専門的な言葉で申しますと、
縁尋えんじんの機妙と申します。
縁が尋ねて次第に発展していく。

例えば、皆さんが、平生勉強しないで、
古本屋へふとお入りになっても
何も目につきません。
しかし、何か本気になって勉強しておられると、
本屋に入った拍子に、関連のある書物は、
何千冊並んでいても必ず求めている書物がパッと目に映る。
これもまた縁尋、縁が尋ねるというもので、
自分が真剣にやっておれば、
必ず求めるものは見つかるものであります。
人間もそうであります。
本当に事業をやろうと思って、
誰か自分を助けてくれるものはいないか、
真剣に人材を求めていれば、
不思議にいつか必ず誰かにぶつかるものであります。

安岡正篤『現代活学講話選集7 王陽明 知識偏重を拒絶した人生と学問』


私はもともと、持っていた世界観がわりと厭世的で、
「理不尽でどうしようもないところけど、
 来ちゃったものはしょうがないんだから
 生きるしかない。
 起こる理不尽にいちいち素直に反応してへこたれてたんじゃ
 負けたようでシャクだから、
 自分が“理想”を実現しようと力を尽くす姿勢を、
 私自身に見せ続けよう」
という決心から、
ここ十数年やってきているのですが、

十数年前の、
一念発起に至る前段階と言いますか、
「自分はなにも成し遂げられていない」
と気を塞いでいた時分に抱えていた不快感が
ガソリンの役割を果たしていました。

私が長年ガソリンにしてきたものは、
「怒り」のほかにも、「不安」「劣等感」があって、
そこからくる焦燥と渇望が
「真剣さ」となって現れていたのかもしれません。

一念発起に至ったのも、
安岡正篤先生をはじめとする、
三人の縁覚えんがくの師を見つけたのがきっかけでした。

安岡先生との出会いはまさしく、
「縁尋の機妙」というやつだったんだと思います。

4月24日の蠍座満月を振り返る


当時の日記には、こう書かれています。

“真剣になると見えてくるもの”を見たかった。


ちなみに、私は自分のホロスコープに
蠍座で冥王星と同居する「金星」を持っているので、
「本物になりたい」
「徹底してやり抜いた先に見えてくるものを見てみたい」
という衝動があるのかもしれません。

先述の「縁尋の機妙」で知った
安岡先生を師と定めて、
先生の著作をちょくちょく読むようになり、

先生が称賛する

「何物にも頼らず自分自身に徹して生きていく」
「自己に徹して、絶対に生きる」
「命懸けの思索修養に励み、確固たる信念・見識・学問を悟る」
「主観主義の底の底まで考え抜く」「骨の髄まで生き抜く」

といった先人たちの偉業に感化されて

「自分も、それをした先に何が見えてくるのかを知りたい」
と突き動かされて
ここまでやってきているのを思い出しました。


これまでの、
表面上はなんの得にもならない、
むしろ損をとっているような
こだわりだけでやってきているような部分を振り返ったときに
駆り立てられる衝動みたいなものがあって、

その衝動って、
この「徹底したときに見えてくる真理を見たい」
という感覚だったよな、という感じです。

5月8日の牡牛座新月を振り返る

このときの日記には、

私は日々の流動を記すことを仕事に定めた。
神仏宇宙の意向を純粋に汲み取り、
然るべき形に表現する役割を賜った。

という宣言が書かれています。


今年(2024年)の2月から3月にかけての
山寺で過ごした三週間で、私は
「神仏宇宙と直接つながりたい」
「純粋なものの意向を汲みたい」
という、
欲求とも指針とも言えるものを持つようになりました。

そして、
自分が何をしたいかを自問したところ、
「自己表現」だという答えを出しました。

自分自身を筒にして、
神仏宇宙の伝えたいことを表現する役割を賜りたい


と、淡路島で立ち寄った先々の神社でも
宣言してまわっているところです。

余談ですが、4月24日のノートの端っこには
「日本全国を働きながら行脚して霊性開発修行をする」
という言葉も書き留めてありました。

友人との対話を振り返る

友人から指摘されて腑に落ちた言葉があります。

それは、


「“自分を筒にして神仏の伝えたいことを表現する役割”
 をこれからしていくんだと思う。
 いまは、感度を純化させるための期間になる。
 その筒(身体)にこびりつく古いものを削ぎ落とす時期だと思うから、
 身体の感覚に主導権を明け渡すよう心がけて」

というもの。

いまが、「自分の感覚の純化」のプロセスなら、
快不快が如実にわかるような、
体感センサーの振れ幅が大きいここ数週間の出来事は
「自分の感覚がよくわからない」と迷子になりがちな私に
わかりやすく伝えるための教材だったのかも、
と、現状を解釈し直すことができました。


牡牛座に太陽、金星、木星、天王星が滞在する
5月15日から5月25日までの十日間は、
感じることを優先して、
筒の純化が起こるよう
物事の判断を身体に委ねていこうと思います。

2024年5月18日 拝

知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。