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弁ぜんと欲すれど言を忘る


秋は漢詩も感傷的で物憂げなものが多かったりもしますが、陶淵明(とうえんめい 六朝期のひと)の田園詩とかはいい雰囲気です。あ、今は既に秋というより初冬ですけど。

陶淵明は、官僚勤をさっさと辞めてさっさと田園に戻った人です。人より裕福でいたいだとか、羨まれる生活をしたいだとか、そういう果てしないネズミの滑車(または不愉快なトレッドミル)からさっさと解脱できた、尊敬に値する仙人です。

これは奈良の高円らへんです。いいかんじですね。


結盧在人境
いおりをむすんで じんきょうにあり
而無車馬喧
しかもしゃばの かまびすしになし
問君何能爾
きみにとう なんぞよくしかるを
心遠地自偏
こころとおく とちおのずからへんなり
采菊東籬下
きくをとる とうりのした
悠然見南山
ゆうぜんとして なんざんをみる
山気日夕佳
さんき にっせき よし
飛鳥相与還
ひちょう あいともにかえる
此中有真
このなかにしんあり
欲弁已忘 
べんぜんとほっすれど ごんをわする

陶淵明 飲酒二十首 其五

百毫寺の石仏。

賑やかしいところからちょっとだけ離れて、山とか見れるところに住んでる。
山の夕日だとか、連れ立って巣に戻る鳥とか見てていて、しみじみいいなと思う。言葉ではうまく言い表せないんだけど。

という趣旨。
わたしは心の中でこの「悠然として南山を見る」の南山を鈴鹿山脈比叡山若草山に置き換えています。

百毫寺から見える風景。

昼間はJR奈良駅から三条通、東大寺あたりはけっこうな人の数で賑わっていますが、春日山遊歩道だとか不空院だとか、奈良公園もすこし奥に行くといきなり静かになったりします。

白毫寺入口の階段。


利便性や安全性という俗世的な問題もありますので、そして公共交通機関頼りなので、あんまり人里離れたところに住むことは私は現実的には無理なんですが、近鉄駅で特急が停車するレベル感の駅からそう遠くないところで山とか見ながら効率より充足重視の生き方をしたいって思ってます(こんなん書きながらも、自由は金銭の紐づけあってのことだとかも思ってます。)


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