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20:19

 19時50分、授業終わりの立礼をする。一対一で向き合っていたはずの女子生徒が、問題集の答えをこっそりと、しかし明らかに覗いていたのが気になっていたが、きっちりと注意することはできなかった。一介のアルバイト講師には出過ぎた真似だと思った、などというご立派でいかにも慎ましげな信念によったわけではない。情けない話だが、あの手つきは身に覚えがあった。結局彼女を曖昧に見送って、報告書を立ち上げた。報告書にも書くことはできなかった。

 教材と持ち物の片付けを終えて、やや義務的な「お疲れ様です」に見送られながらバス停に向かう。塾長が代わってからは、職場がちょっとだけ無味乾燥になって、どうしたものかなと思っている。信号が変わるタイミングとの周期がちょうどぴったりと合い、やってきたバスにすぐ乗ることができた。一番後ろ、一番端の席に座って、いつまでも見慣れないモノクロの掠れたアイコンをタップする。アプリを開いた直後、いつも通り勝手に行われるあまりに素早い更新の狭間に、相互フォローをしているアカウントのつぶやきの欠片が目に入った。

「ストーリーの……カバー……」

新しいのが出たのか!これは見なくては……

「もしかして涙風さんの……?」

……

!?

声をあげないよう、口を押さえる。すぐに自分の目で確認した。想定し得たまさかが、不意に起きてしまっていた。その時刻、20時19分。

私がカバーを提案し、ドラムを叩いたときの映像……?

私が所属しているサークルにはYouTubeチャンネルがあり、サークル内のライブは全曲の演奏がアップロードされることは当然承知済みである。どうせならそれと同時に、YouTubeのアルゴリズムによってこういう事態が引き起こされるかもしれないということも、もっと強く認識しておくべきだった。数日前に自分で見返したとき、「次の動画」に本家MVが現れるということがあってもなお、この衝撃に耐えうる覚悟を決めることはできていなかった。

 目を見開いて、右手の傘をありったけの力で握った。呼吸が浅くなっていった。ここはバスの中、音を立てないように。自然とそうなっていくのを止めぬままに身体を強ばらせた。目の前に座っていた男性が降車したとき、息を吐く動作がだんだん強くなって、声を上げて泣きそうになった。とにかく、今しがた起きたことが飲み込めなくて、ひたすら怖かった。

 公共交通機関の車内に一人で抱えているのがたまらなくなって、ろくに推敲もせずに「びびってます」とつぶやき、1週間前の本番の日を最後に止まっていたバンドのグループLINEにこの事件を共有した。これまでは必要最低限の連絡・反応のみだったメンバーが一番に驚いた顔のリアクションを返してくれたのが妙に面白かった。そのあと、程なくしてほぼ全員から驚く顔と「😍」のリアクションが返ってきて、そこで初めて少しにやけた。

 少しずつ落ち着いてきて、やっとこのできごとを嬉しく思い始めた。よく見ると高評価を押していただいている。勝手にカバーしてしまったことへの謝罪と、見ていただけたことへの身に余る光栄の意をできるだけ簡潔に、丁寧にしたためて本人へとメッセージを送った。20時24分。にわかに身体の力が抜けた。早いとこバスから降ろしてほしかった。

 バスが家の最寄りにたどり着く。頼りない膝に不器用に力を込めて立ち上がる。運賃を支払うと、ふらつくまま家の玄関に向かって駆け出してしまった。今すぐ、どうにかして叫びたかった。鍵を乱暴に回して家に入り、鞄を床に投げ置いてへたりこんだ。そして内臓を全て裏返すように声を出した。もう何もかも分からない。今度は両手に力が入らなかった。自然にうつ伏せになっていたのは、無意識なMVのオマージュのようで少し滑稽だったかもしれない。通知を見ると、先程送ったメッセージに「❤️」が返ってきていて、これもまた大事に抱えた。

 忘れることなどないかもしれないが、こんなにも忙しなかった、一晩にも満たない間のできごとを、改めてここに書き残しておく。



https://youtu.be/ABd1xo4xCfQ?si=H2YragytkjpTWaGH






(以下蛇足)




 冷静にストーリーの画面を見直すと、やはり2行目が気になった。そのときふと、かつて彼自身が「エンディングの曲として聴いていた人がフルバージョンを聴いたときの感動を自分も感じてみたい」というようなことを言っていたことを思い出した。一読してお分かりの通り、私は自分の目の前、もしくは内部につい向き合い続け、同時に客観に飢え、あるいは客観を認識しなくなることが多い。そのため、客観を求めているという点においてはもしかして彼と似通っていると言ってしまっても良いのではないのかもしれない、とぼんやり思ってしまった……などといった話を、ここからさらに展開していきたかったが、どう考えても不毛で失礼な方向にしか進めないと感じたため、ここで真におしまいとする。私に似た誰かへのメッセージを送って、結びの言葉とする。

 ぜひ一緒に、コピーバンドやりませんか?私は「今宵はジルバで踊らせて」と「ラムネ」をやってみたいです。「どうしようもない」と「幸せの予感」も。


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