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コミュニケーション能力を持ち出した時、コミュニケーションは終わる。

ryotaです。

普段何気なく使う言葉で、意味の定義が曖昧な言葉って結構あったりする。
僕はそういう解釈が分かれる言葉のことを考えることが好きなんだけど。

そうだな、今日はそんな解釈が人によってバラバラになる言葉の一つについて考えてみようと思う。

先に断っておきたいのだけど、僕は結構意図せずにきつい言葉を使ってしまうことがある。
僕の文章を読んでいて、言葉が強すぎると感じた時はどうか一度読むのをやめて、キッチンに行き、温かいミルクでも飲んで心を鎮めてほしい。
そのあとで、できたら「そんな言い方はないんじゃない」と教えてくれると嬉しいな。


さて。

周りが就活やらなんやらで、自分のことを発信、表現するようになると決まって聞くようになる言葉がある。

それが
『コミュニケーション能力』という言葉だ。

就活でも自己紹介でも「私の長所はコミュニケーション能力があるところです」はもはや常套句だ。
それに、口達者にいろんな人と話すことができる人を「あいつはコミュ力がある」と言い、逆にうまく会話のリズムを生み出せない人を「コミュ障」と揶揄する。
これもよくみる光景だろう。


僕は自分が就活を辞めてから友達や後輩の就活をひたすらに手伝っていた時期があった。
その時に耳にタコができるくらいこの「コミュニケーション能力」という言葉を聞いた
そんな時、いつも一段掘り下げて「あなたにとってのコミュニケーション能力とはなんですか」と言葉の定義を促していたんだけど、この答えがまさに千差万別でおもしろかった。

ある人は「コミュニケーション能力とはいろんな年齢の人とおしゃべりをする力」と言い。
ある人は「それは聞く力です」と言い。
ある人は「共感する力です」と言い。
またある人は「信じる力です(?)」なんていう。
ほんとにいろんな答えが返ってきた。

いろんな答えが返ってくるのも無理ない。
ヨーロッパから入ってきた言葉はもともと日本にない概念で、説明しようにもそのための語彙を僕らは持ち合わせていない
「社会」とか「個人」とか「自由」とか近代的な西欧由来の概念は、何食わぬ顔をして日本語になりすましているけれど、「じゃあそれってどういう意味?」って問い詰められた時に、それぞれの言葉をちゃんと定義できる人は多くないだろう。
そんな言葉たちと同じく、西欧から海を超えて渡ってきたこの「コミュニケーション」という言葉を説明することは、大抵の日本語母語話者には難しい。
つまり、みんなに知れ渡っている共通の定義なんてないのだから、それぞれの人に解釈があるのは当たり前って感じ。

で、僕は人に何かを問うようなときは自分自身にも問い質し、一緒に考えるようにしているのだけども。
どうも、この「コミュニケーション能力」という言葉だけはなんとも定義できずにいた

そしてやっと最近気づいたことがある。
それは「コミュニケーション能力」なんていう「能力」はこの世に存在しないということだ。
つまり、この言葉を定義しようにも実在するものではないから、色々言葉を組み合わせて説明しようとしても、何か意味が表象するものではないということに気がついた。
「コミュニケーション能力」なんていう「能力」は存在しない。
もう一度言おう。
「コミュニケーション能力」なんていう「能力」は存在しない。

さて。
それじゃあ、次に問題は「なぜコミュニケーション能力が存在しないと言い切れるのか」という方向へと転がるだろう。

それは"「コミュニケーション」の本質"に答えがあると思う。

「コミュニケーション」の本質とはなんだろうか?
おしゃべりか?
会話か?
聞くことか?
意思の疎通か?


答えはどれもNOだ。
確かに上に並べたものはコミュニケーションを構成している要素ではあると思う。
しかし「コミュニケーション=〇〇」というように本質を説明できてはいない

じゃあ、コミュニケーションの本質、真髄とは一体何なんだろうか。

僕がたどり着いた答えは、
『相手を対等な存在として認めた上での双方向的なやりとり』
これに尽きると思う。

言いたいことは二点ある。
「対等な存在として認めること」と「双方向的なやりとり」であることについてだ。

まず一点目。
相手を対等な存在として認めるからこそ、相手の話に耳を傾け、自分の想いを口にし、心を通じさせようとする。

もし自分が相手より優っていると考えるならば。
あなたは自分の考えを勿体無いと言って相手に話したりしないだろう。
あなたは相手の話は聞くに堪えないと耳を貸さないだろう。
もしあなたが相手よりも劣っていると考えるのならば。
あなたは相手が恐ろしくて自分の本心など打ち明けられないだろう。
心を通わせようなどと試みもしないだろう。

コミュニケーションは相手を対等な存在であると認めるからこそ起こりうるものだ。
相手へのリスペクト。

これを欠いてコミュニケーションが成り立つことはない。
まずはこのポイントが一つ。

もう一つのポイントが「双方向的なやりとりであること」

コミュニケーションは何かと何かの間でしか起こり得ない
これはなにも人と人の間のやりとりに限らない
例えば「ものと人」もあり得るだろう。
ガラス職人はその日のかまどの具合を考慮してガラスを熱する時間を調整する。
これもある意味でコミュニケーションだろう。
またコミュニケーションは「自分と内なる自己」の間でも行われる。
「今日はマックを食べるのはどうか?」と自分の体の調子を自分に尋ねるというのは僕らが日常的に行なっているコミュニケーションだ。
いずれにせよ、コミュニケーションは自分と他者の間で起こりうるやりとりだ。

繰り返しになるが、コミュニケーションは「双方向的なもの」である。
つまり、対象がないのであればコミュニケーションは成り立たない
よく言われるが、コミュニケーションは自己満足のプレゼンテーションではないのだ。
これを二つ目のポイントにしておこう。

さて。ここで。
この二つのポイント「相手を対等と認めること」「双方向的であること」を根拠に、さっき話していた「コミュニケーション能力」という概念が無茶な論だということを説明したい。

ふう。
少しややこしい話をする。
5文ほどお付き合いいただきたい。
「自分にコミュニケーション能力がある」と声を大にして言う人は逆に言えば「この世にはコミュニケーション能力がない人がいる」と言うことを示している。
つまり、コミュニケーションにおいて「自分と対等ではない(劣っている)他者がいる」と言うことを同時に主張している。
ということは「コミュニケーション能力がある」と言う人は他者を対等に見ていないから、対等な他者とのやりとりであるコミュニケーションを成立させることはできない。
つまり、コミュニケーション能力があると主張をする人はそもそもにコミュニケーションについて理解をしていない
理解をしていないコミュニケーションを行うことができるはずがないと言う点で、「コミュニケーション能力がある」と言う人間などこの世に存在しないと言うロジックだ。
意味がわからなければ何度かこの部分を読み返してほしい。
僕も書いていて混乱したくらいだから。
まあ、端的に言うと、「お前コミュニケーションできるって言ってるのに、コミュニケーションが何かそもそもわかってないじゃん、わからないものをできるなんて無茶だよ!」ってところだろうか。
これをアンチテーゼの一つ目にしたい。

次に、「コミュニケーション能力」の「能力」の部分を否定したい。

「能力」っていうのは個人に属するものだよね。
計算能力とか超能力とかって言葉があるように。
1人で発揮できる技術だとか力だとかを能力っていうんだと思うんだけども。
じゃあ、さっきの話。
コミュニケーションは「双方向的なもの」だとするならば。
他者(人に限らず)が存在していないとこのコミュニケーションは発動されないの。
ということは、個人だけで発揮できる力を表す「能力」って言葉を、他者との関わりを必ず要求する「コミュニケーション」という言葉にくっつけるのはどう考えても乱暴すぎるのではないだろうか。
他者・相手がいないと成り立たないものを、あたかも自分だけで成り立つような「能力」という言葉で括ってしまう。
これは言葉の詭弁だ。
ミスマッチオブザイヤーだ

以上の二点。
「コミュニケーション能力の有る無しを声に出すと、コミュニケーションができなくなる」「双方向的な営みのコミュニケーションを1人で成り立つような能力に帰結させることが乱暴すぎる」という二点から僕は「コミュニケーション能力」の存在を認めることはできない。

「コミュニケーション能力」という言葉をコミュニケーションの場に持ち出した時点で、コミュニケーションは終わりを告げる。

なんとも皮肉なものだ。
まあそんな感じで「コミュニケーション能力」ってのはちょっと乱暴な言葉だなと僕は思っている。
いろんな意見があるだろうけども。

以下はおまけの文章だと思って読んでほしい。

んーと、あのね。
僕は思うんだけども。
最近さ、コミュニケーション能力って言葉に限らずさ、なんかいろんな「〇〇力」って言葉が巷に溢れてるじゃん?
「傾聴力」「共感力」「思考力」etc...
これってほんと嫌な感じだなと思っていて。。。
コミュニケーションもそうだけど、傾聴も共感も思考も、こういうのって能力値化して測定できるスキルじゃないでしょ。
こういうのって、「身につけることができる能力」じゃなくって、その人が他者や自分と"どう向き合うか"っていう「その人の在り方」の話なんだと思う。
長い時間をかけて形作られていく、その人の周りのものに対しての関わり方の価値軸、「在り方」に関する概念なんだと思う。
だから、個人的に「傾聴力」とか「共感力」とかを「こうやったら身に付きます」っていうふうに謳っているハウツー本とかを「キモいな」と思ってしまう
コミュニケーションも傾聴も共感も思考も、個人が他者や自分自身と向き合う中で、その人の文脈の中で生まれてくる極めてその人に依ったもので、手に入れるための万国共通の近道なんてあるわけないだろう
一人一人、一個一個の物事に正面からちゃんと対峙する経験を積み重ねて、考えて考えて、ほんで徐々に形作られていく、その人自身の価値軸だろーが。

書店でよく見かける「考える過程、対峙する過程を省略していきなり傾聴力の確変モード突入させます」みたいな謳い文句の本を見るたびに僕はとても嫌な感じを覚える。
人が考える機会をなぜ奪う?
省略できることはそんなに偉いことか?
口車に乗せられる方も乗せられる方だ。
考える過程を、正面から向き合う過程を省略してまで手に入れたその薄っぺらい「〇〇力」なんて何になるんだ。
目の前の物事と向き合って丁寧に生きろ。
そんな説法を押し付けたくなる。
まあこれは完全に僕のエゴだな。
あははははははは。

ふう。
長くなった。
でもこういうふうに言葉がぞんざいに扱われていることに僕は危機感を持っている。
また書こうかなと思うけど、言葉は使う人の心を映すのだと思う。
テキトーな言葉を使う人はテキトーに生きている人なのだと思う。
使う言葉がテキトーになれば、その人もテキトーな人になってしまうのだと思う。
自分が使う言葉、受ける言葉を大事にすることは自分自身を大切にすることだと思う。

一つ一つの僕の口から発する言葉にこだわって生きていきたいなと僕は考えている。
それが自分を大切にするってことだと思うからさ。

ryota

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