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価値を失った「いいね」の数。追い求めていた過去の自分。

ryotaです。

僕はインスタグラムが大好きだ。
自分の好きなものや好きな風景の写真や動画をポストすれば、誰かがすかさず「いいね」をくれる。

自分の思い出箱にもなっているし、自分の「スキ」の発信場所にもなってる。
実際に、インスタへの投稿を見てくれた人と趣味で繋がったり、話が弾んだりする。
同じ「スキ」を通じた「共通言語」の誕生の場所。
それがインスタだと思う。


ちょっと離れた人と仲良くなるきっかけになるのがインスタを通した「共通言語」の交換なんだと思う。
「共通言語」って大事なもので、今までほとんど口も聞いたことのないような高校の友達や、昔のバイト先のメンバーとかと思いがけずに共通言語で繋がったりする。

面白い時代だなと思う。

アメリカに留学していたとき、僕はインスタにはとてもお世話になった。
言葉の壁があって、文化の違いがあって。
友達作りに苦戦していた初期の頃。
趣味の釣りや旅行やサッカーの写真をインスタに載せていたところ、アメリカの友達が見てくれていて。
大学で会ったときに「お前釣り好きなのかよ、早く言えよ。週末に釣りに連れていってやるよ」とか。
「今、サッカークラブでメンバーを探してたんだ。入ってくれないか?」とか。
インスタに投稿したことがきっかけでそれまでは動かぬ背景でしかなかったアメリカの学生が、急に絵の中から飛び出して僕に話しかけてくれるようになった
後から聞けば、「日本人だから面白そうだとは思っていたけども、話しかけようにもなんの話をしていいかわからなかったから躊躇してたんだよ」と。

僕と同じじゃないか。
僕も彼らになんの話をしたらいいのか、どんなことが好きなのか全くわからなかくて話しかけられずにいたけれど。
友達になりきれていなかったけども。
でも、その原因は単に話すための「共通言語」がなかっただけなんだと。
英語ができるだけじゃダメなんだなと知った瞬間でもあった(その辺の詳しい話は別稿で)。
授業生活だけじゃ表現しきれない自分の趣味とか好きなこととかを表現するには、発信できるプラットフォームが必要だった。
インスタは自分を発信するにはもってこいだった。
今思えば、インスタがなかったら、ただただ勉強をしているだけの留学生活になりかねなかった。
いや、大袈裟に聞こえるかもしれないが、それくらい異国で自分を表現することは難しい
留学生活を彩るきっかけになったのはインスタの存在が大きかったなあ。

んで、そんな自分発信の手段としてインスタを使うことを覚えた僕は、日本に帰ってきてからも変わらずインスタで「スキ」「推し」を発信している
最近では考え事や意見などの「思想」の部分までも写真とともにポストしたりするようになった。

ここでも、アメリカでの経験と同じように、発信すれば何かリターンがあると気がついた。
釣りの動画をあげれば、釣りへの誘いが来る。
スキーの動画をポストすれば、スキーの誘いが来る。
写真スポットの情報が集まる。
美味しい食べ物の情報が集まる。
問いを投げれば、誰かからの答えがくる。
何かを発信すれば、その何かを共通言語として持つ人からのリアクションが必ず得られることが実感できた。
これは、僕が趣味や興味をどんどん広げていく助けになっていると思う。

こうして、インスタにメッセージを乗せて使うことで自分のコミュニティを広げることを覚えた僕は、自分の仲間集めの一環だと思って今もインスタを使い続けている

ところでインスタなどのSNSを使っていく上でセットとなってくるのが「いいね」ボタンの存在だろう。
いいねの数が多ければ、より多くの人から支持されているとも言い換えることができるし、逆もまた然りだ。
僕もそんなふうにインスタを使っている中で、「いいね」の数に一喜一憂していた頃があった
特に過敏になっていたのは「留学はじめ」と「留学終わり」の時期だった。
これって、僕の自己肯定感が極端に低くなっていた時期と重なるんだよね…
つまり、自分の存在を肯定できていなかった、認めることができていなかった時期だったの。

さっきも書いけども、留学当初は異国の地で自分の大したことなさを思い知ったのと、なかなか自分のコミュニティを見つけられずにいたのとで結構凹んでいた。
思い描いていたものとは違う留学生活。
「違う、そうじゃない」感が強かった
その時、自分の生活をなんとか正当化しようとして、インスタグラムでは自分の生活を楽しく見せようと繕っていた
日本の友達には「僕はこんな感じでやってます」アピール的なね。
まさに承認欲求のしもべだったな。
今思えばキモいが、まあそんときは強がっちゃうような弱い自分だったってことです。はい。
この時が「第一次いいね追い求め期」と重なっている。
「自分の生活は少なくとも日本にいる友達よりはマシだ」と思いたかったのだろうね。
その時はやっぱり、ポストへのいいねの数に一喜一憂していたなと記憶している。
青かったね。

で、それはさっき書いたみたいに奇しくもインスタの使い方を身をもって学ぶことで解消されていった。
やっぱ、人間って自分に自信がない時には他人の評価をあてにして生きてしまうんだなと体感したときだったなあ

そんなこんなで充実すぎる留学を終えて日本に帰国した後、これまた自己肯定感が低下する時期に突入した。
いわゆる(?)、「第二次いいね追い求め期」に当たると思う。
留学を終えて、日本に帰国した僕を襲ったのは「燃え尽き感」だった。
アメリカでの生活から一転、再び見知った土地に帰ってきてその生活に慣れ始めた頃、なんとなく何もする気が起きない時期が二、三週間続いた。
アメリカから日本に帰ってきて、飛行機から降り立った瞬間はそれはそれはあらゆる数値がマックスで「日本でもなんでもできるぞ」と多分、後光が差していた(?)んだけども、一度落ち着くとなんとなく閉塞感に襲われていた。
多分、これも「俺、なんでもデキるじゃん」と驕り高ぶっていたからこそ、自分の大したことなさにがっかりしてたんだと思う
アメリカでの自分とお別れできず、自分のありのままの存在にイエスって言えなかったのね。
ほんと青いな

この時期も、インスタのいいねの数には敏感になっていたな。
「僕はこんなもんじゃない」っていう勘違いが、その背伸びが自分の他者承認への欲求に拍車をかけていたのだろうなと思う

まあこの第二次はあんまり長くなかったな。
てのも、留学帰ってきてから一拍置いてすぐにインターンやら教育実習なんかで忙しくなってその閉塞感も吹き飛んだんだな。
人と関わる機会があったらそっちが楽しくて小さな承認欲求なんてすぐにどっかいってしまうんだと思う

そしてそんな承認欲求のしもべの「いいね追い求め期」を経て今に至るんだけども。
今は「いいね」についてどんなふうに認識してるのか。

結論から言うと、「いいね」なんてどうでもよくなっちゃった。

あはははははははは。

コロナになって旅行にいけなくなってからは、投稿する写真にいつも通っている場所とか、慣れ親しんだ場所の投稿が増えた
コロナになってから、いつも触れるものや触れること、いわゆる「日常」への解像度が上がった
結果、これまでは素通りしていたことからもメッセージを受け取れると言うことがわかってきた(詳しい話は別稿で)。


そんな日常への気づきって、僕だけの気づきで誰かから「いいね」なんて言われなくても、自分で「いいなあ」と思えるだけで十分だなと思っている。
自分にしか気づけないものを写真に収めて、日記がてら受け取ったメッセージを乗せてインスタにポストする。
その営みに他人からの「いいね」の評価が入り込む余地なんてありゃしないと今は思っている。
だから今は「いいね」はほんとどうでもいいなあ。

僕は言葉を扱うことも好きで、インスタの写真を投稿するときは写真から受け取ったメッセージを添えて投稿するようにしている。
この類のポエム的な投稿はいいねの数だけで見ると評判は悪い(笑)。
おそらく、僕の友人は「またキザなこと言いやがって」と一歩引いているのだろうなと思う。
さらに悪いことに自分的に自分に刺さった投稿の時の方がことさらに「いいね」の数は少ない
自分ではいいと思っても、他人はそんなに素敵だとは思っていない。
悲しいもんだ。


悲しいものなのか?
考えてみれば自分の価値観と他人の価値観が違うことなんて当たり前だ。
つまり、いいねと思う美意識もちろん違っているだろう。
そんな他人の指標をいちいち気にしていてどうすんだ
自分の「スキ」に刺さる言葉が出せたのならそれで十分じゃん。

今はそうやって考えている。
気楽にそこらで受け取ったメッセージを気の向くままにインスタに写真とともに投稿する。
もう、前みたいに「いいね」の数が価値を持っていた時期は過ぎ去ったなあ。

インスタは、自分の考えを表現できる場所。

自分の「スキ」に誰かが反応して「共通言語」が生まれる場所。

インスタはそんなふうに思って使っています。

自分の「スキ」を表現できるインスタが好きだ。

「スキ」を置いておけば、誰かの「スキ」とつながることのできるインスタが好きだ。

好きだからこそ、うまいこと付き合っていきたいなあと思うそんな今日この頃です。

ryota

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