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僕なりのアウトドア論。

ryotaです。

えっと、僕は外で遊ぶことがとても好きだ。
年に10回はキャンプに行く。
小さい頃から嗜んでいるスキーも冬には何度となく雪山に足を運ぶ。
海なしの奈良県に住みながら、釣りが好きすぎてハイシーズンには週に2回は他県の海辺にいる月もある。
最近、SUP(Stand Up Paddle board)を覚えた僕は、その活動範囲を陸上だけでなく海上にも広げた。
街で買い物も付き合いで行ったりするが、生業とするのはもっぱら屋外での遊びだ。

まあ、今でこそバリバリのアウトドア人間だけども、殊更にこれほど屋外で遊ぶ割合が増えたのはアメリカ留学を経てだと思う。
というか間違いなくそうだ

思うに僕がアウトドアの遊びを好きな理由の一つはそこに「不確実性」があるからだ。
つまり、「何がそこで起こるかが分からない」ということに僕は最高にエロスを感じる
例えば、キャンプに行けば。
そこで起こることは大抵の場合、事前に練った計画通りにはいかない。
火を起こそうと思っても薪が湿っていてうまく点火できなかったり。
持ってきたと思っていたものがなくて、急にプロフェッショナルモードに突入したり。
三食の献立をちゃんと考えていても、買い忘れの材料があってメニュー変更したり。
夜中に突風が吹いてテントごとキャンプ場を転がされたり。
まあそれはそれはいろんな予測不可能なことが起こる。
僕はこういう「何が起こるか分からない」っていう不確実なことが好きなんだと思う。
釣りに行ってもいつも釣れるってわけじゃない。
SUPをやってりゃ波風に飲まれて怖い思いをすることもある。
だけどもこういう不確実性に対峙した時こそ、「あ、自分って今焦ってんな。汗かいてんな。生きてるなあ」って感じることができる
まあなんだ、月並みに言えば「生きてることを確認できる」
それがアウトドアで遊ぶ醍醐味の一つだ。

この不確実性の味を占めたのはアメリカ留学のころだ。
アメリカに行くまでの僕はいわゆる「完璧主義者」だった。
つまり、失敗することを過度に恐れ、失敗の恐れがあることには最初から手を出さない。
成功するとわかっているものにだけ干渉するという、要は「プライドだけ高いクソビビり人間」だった。
まあなんだろう、比較的優等生扱いを受けていた僕は「ryotaとはかくあるべき」みたいな像があって。その中に失敗しない像があった。
その偶像を壊したくないがために、若くして守りに入っていたって感じだね。
今考えると、だっっっっっっせえなあ。笑
まあ、そんな僕も僕なわけで今では可愛い思い出です。

で、アメリカで何が変わったかっていうと。
そこでは何一つとして物事が自分の思い通りにいかなかったんだ。
いやほんとに文字通り。
何もできなかった
見知っていることも人もいないし、言語的にも文化的にも遠いアメリカでの暮らしは、最初は「怖い」でしかなかった。
でもね、なんだかんだその生活にも慣れていって次第にその「なんも分からん」っていうのが当たり前だと気づいていったの。
でその結果、逆にこの「怖い」とか「不確実」とかっていう要素がとってもワクワクするっていうのに気がついた
その感覚が覚醒してからというもの、アメリカでの何もかもが楽しかったなあ。

僕が留学した大学があったのは、山に囲まれていて周りには街どころか家すらなく、高速道路のど真ん中で、最寄りのスーパーまで車で20分はかかるようなまさに陸の孤島って感じの場所だった。
車を持っていなければ脱出不可能な囚われの身。
例えるならば"流刑地"のような場所。
控え目にいって「クソど田舎」だった。
最初はまあ遊ぶ場所も買い物する場所もないし、よく想像されるような留学生活とは違って、退屈だなあと思っていた
実際、帰国するまでずっーと「退屈だなあ」と嘆いていた友人もいたほどだった。
最初の慣れないうちには、何をしたらいいのか何ができるか分からなかった僕だが、徐々に不確実性とか怖いって感情が面白いと感じるようになってからは、大学の立地の素晴らしさに気がついた。
山、川、アメリカ
それはそれは自分の遊びの創造性を試すにはうってつけの環境だった。

「おい待てよ、こりゃあ不確実の塊じゃあねえか」

自分がいる場所がいかに恵まれているかに気がついた僕はいろんなことに手当たり次第にチャレンジをすることが楽しくて仕方がなかった。
大学の裏の山を一日中走り回ったり。
友人とカヤックで湖に繰り出したり。
毎朝5時に起きて授業前の釣りを日課化したり(余談だがアメリカで河川で釣りをするには免許が必要でその免許も取った)。
レンタカーを運転してスピード違反で警察に停められ、危うく強制帰国か?なんてのもあったなあ。

で、その「不確実性中毒」は大学内だけで止まらなかった。
僕の好奇心は僕を大学の外へと誘い出した
その好奇心は1ヶ月半の冬休みに僕を南米へと導き、ヒッチハイクとバスの陸路での南米大陸縦断をさせたし。。
メキシコでカジキを釣らせたし。
帰国前にはグランドキャニオン含むアメリカの堂々たる国立公園を5000円のチャリンコで1ヶ月かけて踏破させた。

ほんとに好奇心だけでいろんなところに足を踏み出した
これは単に、「不確実性」の虜になっていたからだろうね。
リスクはあったけど(実際に南米でもアメリカでも怖い目にあった)、そのリスクへの恐怖心を超えるくらい不確実であるということにエロスに感じていた
まさに中毒だったね。
その時はあまりそんな自覚なかったけども。
麻薬中毒とかでも、中毒になっても自分で気が付かないから自分の力だけで抜け出すのは困難って言うけどそんな感じでさ。
日本にいた友達は「危ない」だのなんだのいっていたけど、好奇心と不確実性を渇望していた僕には馬耳東風だった。
「おもろそうだから行くんだ」
あれほど素直に自分の感性に任せて行動できていた頃が懐かしい。
そしてそこにはかつての「完璧主義者」としての僕の姿は消え去っていた
僕は、失敗や不確実性にこそ楽しみを見出す"insane"なやつに生まれ変わっていた。

まあ、なんだ。
そんな風にして不確実性の味を占めた僕にとってアメリカから帰るのはまさに悪夢のようだった(この辺が当時お付き合いしていた人との関係を終わらせる原因になったのだけどもまた別稿で)。
まじで帰りたくなかった

「なんで?日本でもアウトドアとかいくらでもできんじゃん」
僕にはそんな声がかけられた。
だが、それは違う。
僕が好きなのは「不確実性」であって、アウトドア遊びがあればいいというわけではない
アウトドアは不確実性を味わうための手段の一つに過ぎないのだ。
そしてここにアメリカでアウトドアにいることと、日本でアウトドアにいることの大きな違いがある。
日本でのアウトドアとアメリカでのそれとでは「不確実性」において、強烈さが段違いだ
日本でもアウトドアはできるじゃんと言われたが、日本でするアウトドアには何か気が乗っていなかったのはアメリカで体験したレベルの不確実性を味わえないと感じていたからだろう。

僕は帰国前、アメリカの友人に日本に帰りたいかどうかを尋ねられたときに「帰りたくない」と答えていた。
そして友人は聞く。
「なぜだ?日本はいい国じゃないか」と。
その時、僕はいつもこう答えていた。

"Everything in Japan is by design."

「日本ではありとあらゆるものが整い過ぎているんだよ」と。
これはディズニー映画の「モアナと伝説の海」内の"How far I'll go"という曲の"Everything is by design."という一節を引用した言葉なのだけども。
"by design"は「うまく整えられて」なんていう意味がある表現だ。
映画の中では、モアナは住み慣れた島での暮らしにうんざりして遥か青い海に想いを馳せながらこの歌を歌った
「この島は窮屈だ。だって全部が整い過ぎているんだもの」と。
帰国前の僕はまさに自分が長い間住んでいた日本という場所の狭さを思い出して帰国にネガティブになっていた。
島から水平線を眺めて、自身の暮らしを呪っていたモアナと自分の姿が重なっていた。
「あの場所は自分がいたい場所じゃない」

そんな風に考えていた。

話が少し逸れるが、日本、特に都市部は本当に整い過ぎていると思う時がある
電車をはじめとして陸海空の交通網は発達し、どこででも携帯の電波は通じ、生活に困ることはない。
困っても誰かが勝手に助けてくれるし、自分から強く望まれて何かをしなければならないということはあまりない。
まあなんだ、「なんとなく生きることができる」というのが日本だろう、
それはそれで楽ではあるが、手に汗握って生きているなあと感じる体験はなかなかできない
「やべえこの決断を間違うと詰みだな」なんていう決断はほぼないだろう
アメリカでは1日に1回くらい、南米では30分に1回くらいそんな命運を決す決断が迫られていたけど。
日本ではそんな風に楽に暮らせる一方で、便利さに創造力を奪われた人間に突きつけられるのは金銭的なコストだ。
「都会では玄関から一歩出れば金が掛かる」ってのは僕が好きな「里の時間(岩波新書)」という本からの引用だ。
つまり、日本のような都会では全てが整って人間用に用意されている一方で、その全てが整えられている環境に対して払わなければならないコストは大きく、創造性を奪われた人間はそのコストを払いながらでないとその恩恵を享受できないし面白いことができないというのが僕の解釈だ。
噛み砕いていうと、都会はいるだけでも楽しいようにできているが、その楽しさを味わうには金を払えって感じだ。
逆に田舎では、お金は必要がないが創造性が求められる
だってなんもないから自分で作るしかないじゃんって理屈だ。
ただ、何かを生み出すための時間もたっぷり用意されている。
「のんびりでいいから何かやってごらん」っていうのが田舎のスタンスで、それが田舎の魅力だろう。
僕は自分次第でなんとでもできる田舎の方が好きだな

話が逸れたので元に戻したい。
えっと、日本のものは整い過ぎていて自分はそこに戻りたくなかったっていうあたりの話に戻る。
おかえり。

でもまあ、留学は期限付きで、ついに帰国となった僕。
しばらくは前にもどこかで書いてけど、燃え尽き症候群みたいになっていた。
まあなんとなく日々を過ごしてって感じ。

まあその後、教育実習とかもあって、整った日本での暮らしに再び慣れてきた頃だったが。
やはり心が汗をかくような「やべえこれ」っていうアメリカでの体験が忘れられなかった
非日常を渇望した。
気がつくと僕は海にいた。
気がつくと山にいた。
磯にいた。
僕は非日常の刺激を求めてまた家の外にいた。
そこで気がついた。

「あれ、日本のお外も捨てたもんじゃないな」

いやむしろ、これまで訪れたことがある海や山でも、アメリカで磨かれた「何もなければ創造すればいい、捉えなおせばいい」という感性が僕を新しい世界に連れていってくれるじゃないか
何か強い刺激、強い不確実性があるわけじゃないけども、僕はそこでいつも新しい何かを見つけることができた。
波の音、鳥の声、葉が戦ぐ音。
海の青、山の緑、雲の白。
研ぎ澄まされた感性で捉え直す日常は、もうすでに十分に非日常の感覚となっていた。

「ここでも僕は生きている」

そんな風に感じることができた。
この時に僕はアウトドアの遊び方について、アメリカで知ったアウトドア遊びに含まれる「不確実性」の要素に加えて、今まで知っていたはずのものを研ぎ澄まされた感性ーアメリカで磨かれた感性ーによって捉え直すことをもう一つの楽しみに加えるに至った。

日本での外遊びもいいもんだなあ。
今はアウトドアの持つ不確実性と、自分が磨いている感性で"知っているつもり"を捉え直すことを楽しむために自然に浸って過ごす時間を大切にしている。

そんでさらに。
しばらくのち、この"捉え直す"っていうのは実はアウトドアの時だけじゃなくて、自分が普段過ごす日常にも持ってくることができるってのに気がついた。
そこから僕の日常は一気にカラフルになったね。
今までなんとなく見過ごしていたものが目に入るように聞こえるようになった
駅の行き道にアリの大行進に立ち止まったり。
空を舞う鳥がなんという名前の鳥なのか想いを巡らせたり。
いつもの日常に対しての解像度がぐんと上がった。
それはまるで小学校の時に顕微鏡で服の繊維を観察した時の感覚と同じで、見えなかったことが見えるっていうのはこんなにもワクワクするのかと日常でも感じるようになった
これはアウトドアでの遊びで磨いた感性が可能にさせていることだと思う。

まあそんなこんなで僕はアウトドアが好きなんだけど、何も単に外でキャンプしたりするだけなのが好きなわけじゃなくて。
アウトドアで磨いた感性が日常とも深く関わっていて、その感性が自分の生活をカラフルに彩るっていうことが楽しくって仕方なくって。

やっぱりアウトドアはやめられないよねっていう話をしたかった。
長くてまとまりのない文だったけども、付き合ってくれてありがとう。
ここまで読んでくれたあなたへ、

キャンプに行こう。

お誘い待ってます。

ryota

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