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お洒落小僧の頃

 僕が着ることの楽しみに目覚めたのは中学生の頃、8歳違いの姉が初めての給料で家族全員に様々なものを買ってくれた時からだ。
 姉は僕に、その当時流行していたバティック風プリントのボタンダウンシャツと、茶色いスエードのペニーローファー・シューズをプレゼントしてくれたのだった。
 バティック風のプリント地というのは、線描でヨーロッパ風の街並や人間、そして犬などが描かれた生地で、今思い出してもなかなかお洒落なものだったように思う。
 それを着て学校に行くのは誇らしかったし、お洒落をすることの楽しみというものが理解できたのだった。

 その頃からアルバイトをしては、着るものを自分でも買うようになったのだが、当然のことそんなに高価なものは買えないから、もっぱら横縞のTシャツのようなものを手に入れては楽しんだのだった。
 横縞のシャツが好きになったのは、フランスの画家フェルナンド・レジェの描く人物の多くが、それを着ていたからだった。
 絵を描く人になりたいという夢を持っていた僕は、やがて美術科のある高校に進学する。その自由な校風の学校では何を着ていても許されたから、僕のお洒落小僧ぶりが加速したのだった。
 その頃には日本にもリーバイスやリーのジーンズ・ファッションがもたらされ、また昭和30年代の終わりごろにはVANやJUN,そしてEDOWARSなどの、メンズファッションの人気が高まる時代が始まる。ボタンダウンやポロシャツ、シエットランドウールのセーターなどに親しみ始めた時代だ。

レジェ 「建築者たち」

 高校の一級後輩の一人の家が、当時人気の靴屋さんだったから、そこへよく出入りして、初めて靴をオーダーメイドしたのも高校生の頃だった。またその後大坂の曽根崎にアメリカンスタイルの注文靴を専門にしている『小林靴店』という店があるのを知り、またせっせとアルバイトをしてはお金をため、その店では2足の靴を作ってもらった。
 最初に縫ってもらったのは、赤い革のペニーローファーで、コバがぐんと張り出した独特のスタイルだったため、友人のお母さんに「ミッキーマウスみたいだね」といわれた。
 二足目は黒い革のモンク・シューズを注文し、これはちょっと大人びた雰囲気を醸し出す靴だった。
 古い写真の中にそのローファーを履いているものがあり、懐かしい気分となった。

 學校の先輩からの申し送りで、高校時代は毎週のようにデパートの装飾のアルバイトにいそしんだ。今とは違って当時は毎週定休日というのがあって、その日のうちに徹夜作業をして、新しい催事などの準備をする。このアルバイトがなかなかの実入りとなった。
 バイト代は現金払いをしてくれたから、翌日は西木屋町四条下るにあった洋食店”コロナ”で、分厚いポークチョップなどをいただくのが楽しみだったものであった。

 しかし洋服や靴にお金を使い果たすから、いつも素寒貧だったが、気分ははなはだよろしく、学校が終わると毎日四条河原町行の市街電車に乗り、モダーンジャズを聴かせる”ダウンビート”や”ブルーノート”に出かけた。
 当時市街電車の往復料金が25円。ジャズの店のコーヒー代が70円くらいで、100円あれば半日遊べる実に善き時代だったものだ。
 そしてそこにはちょっと先輩のアイビーファッションの仲間たちがいたものだ。
 その中にはMGやポルシェなどのスポーツカーを持っている人もいて、時には当時嵐山にできた、イタリア産のチーズを使った、本物のピザを食べることのできる店などに、連れて行ってもらったりもしたのも楽しき思い出の一つである。


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