父の形見
僕はあまり父親が残したものを持っていない。手元に残っているものといえば一対のカフスボタンと、角帯が一本。
父の形見がほとんどないのは、父が亡くなり葬式を出したときに、たくさんの親戚の人々が参列してくれた帰り際に、様々な父の持ち物を形見分けといって持ち帰ってしまったからだ。
昭和の30年代というのは、まだまだ戦後の名残の時代で、今日のように物があふれている時代ではなかったので、多くの人が形見分けを、よろこんでもらっていったからに違いないと今は思う。
出張旅行を繰り返した父が大切に使っていた、アメリカのウオルサム社製のポケットウオッチや、国産のポケットウオッチも何点かあったが、争うように親戚が持ち帰ってしまい、僕の手元には一つも残らなかった。
その欠落感のトラウマがやがて大人になった時、僕が時計に執着しだした原因の一つかもしれないと考えている。
父は明治の40年生まれで、12歳の時から滋賀県の田舎から京都に出て丁稚奉公をし、二十五歳すぎくらいに暖簾分けをしてもらい、自分で絵の具屋の商売を始めたらしい。
独立の資金はそれまでの働きから天引き貯金といって、親会社が開店資金をためておいてくれたものを頂いたというから、ありがたいシステムが昔にはあったのだ。
そして数年後に丁稚仲間と株式会社を立ち上げ、父はふた月に一度、西日本一帯の小売店巡りをして営業にいそしんでいたものだ。
そんな父の出張の記録がしたためられた手帳を見つけ、時折眺めてその旅行の跡を空想し、たどってみる。
昔の人の旅装や旅の道具はシンプルなもので、小型のボストンバッグに、糊のきいた替え襟と替えの袖口を数枚、それに下着の替え、金属製の洗面と髭剃りのキットボックスなどを詰めて、およそ10日から二週間の旅をしていたのだから、なかなかの旅の達人の域に達していたものだと感心する。
その時代はきっと馴染の旅館などでは下着の洗濯などもサービスとしてやってくれたのに違いない。
普段の父は毎日背広を着てネクタイを締め、ソフト帽をかぶって出社していた。父が最後に仕立てたスーツの生地は、僕が選んだバーズアイという織り方のもので、渋い茶系の生地だった。
夏には麻のスリーピースを愛用し、パナマ帽に明るいグレーの短靴というのが彼のスタイル。
そんな父は帰宅するとすぐに着物に着替えて、くつろぐのが常だった。僕がソフト帽やパナマ帽、そして着物が好きなのも、そんな父の姿を追慕しているからに違いない。
舶来物といわれた輸入製品が好きで、自転車に乗れるようになった時に手に入れてくれたのは、イギリスの“ラージ社”製の臙脂色の子供用自転車だったし、みんなが肥後守を使っていた時代に、これは良く切れるからと、ドイツのゾリンゲン社のポケットナイフを買ってきてくれたものだった。
父はわずか52歳という若さでこの世を去ってしまったが、たくさんの思い出という形見を残してくれたのだった。
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