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桑の木と中国人・自然との距離

割引あり

今日、いつものように自然を撮影しようと河に向かい、土手で撮影していると、向こうからきた若いカップルが近くに自転車を倒して、河原のほうに降りていきました。男性が女性にかけた言葉は中国語のように聞こえました。女性のほうは、そんな様子を眺める私に自然な発音で「こんにちは」と挨拶して、階段もない土手の坂を二人で降りていきました。

私は近くにある階段を河原まで下り、川岸まで接近できるいつもの撮影場所に向かいました。すると先ほどのカップルも別のほうから、私の目的地と同じ目的地に向かっていました。カップルの側からそこに向かうには、浅く水野流れる排水路を渡って来る必要がありましたが、先に男性が排水路を横切って底が滑らないことを確認し、女性も続きました。私は、邪魔になりそうだったので、途中で引き返すことにしました。

中国人らしいカップルが向かった先には桑の木があります。ちょうど桑の実が熟し始めているので、二人は桑の実を摘みにいったのかもしれません。河原のあちこちに生えている桑の木の実は、カラスも食べるようで、桑の木にとまって、熟し具合を吟味してはついばんでいるようなカラスの姿もありました。

中国人と桑について私が体験したことといえば、ほんの小さいできごとがもう一つあります。

もう5年程前になるでしょうか。道路脇に生えた桑の木の葉を採っている人がありました。興味を持って聞いてみると、桑の葉茶にするのだということでした。そのひとも中国の人でした。交通量の多い道路の脇に生えた桑の木ですから排気ガスの影響もあるでしょうが、気にはならないようでした。

日本人もつくしを摘んだり、銀杏を拾ったりしている人を普通に見かけます。私もそうした経験があります。それと同じと言えばそうなのですが、自分が桑の葉茶を作ることもなければ、カップルで桑の実を摘みに行くこともないためなのか、中国人たちの行動に、より自然との親和性を感じてしまいます。

別のエピソードも上げましょう。以前私が住んでいたところでは、魚とり網を持った若い女性たちが水路を覗き込んで、まったく水のない乾いた水路であることを知って残念がっているところを通りがかったことがあります。彼女たちも聞こえてきた会話やファッションから判断すると中国人のようでした。

実際、少し前までは日本人も同じように、桑の葉茶を作ったり、男女二人で桑の実を摘んだり、魚を取りに若い女性が川に出かけたりしていたのだろうと思います。少しの間に自然が壊されたり、商業主義に毒されたり、自然界の物を自分の物にするという行為が非難がましく見られるようになったりして、自然界との距離が遠くなったように私には思えます。

日本の過去について調べてみると、戦前までは環境破壊はそれほど進んでいなかったようです。お城の堀の水が澄んでいたとか、街中を流れる人口河川で泳ぐことができ、アユもいたなどの証言があります。その後の高度経済成長に伴って、自然破壊が進んでいきました。それと同時に子どもたちの遊び場も失われていき、学校や公園でしか遊べなくなっていきました。

私は経済成長や最新技術の成果を享受する生活よりも、自然とのふれあいが身近にあり、野生の果実や動植物を採集して食べることのできる生活のほうが、私たちにとって必要な環境だと思います。そうしないと、私たちがどのような存在なのかを実感することなく大人になり、自然界とかけ離れた理屈を受け入れて気づかないような人間になってしまうと思うからです。


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