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アイヌ語の起源から縄文時代を空想する

割引あり

アイヌ語は印欧語族とオーストロネシア語族のクレオール言語であるという説を元に、縄文日本を空想していきます。


アイヌ語はどこから来た?【世界初解明】/ インドヨーロッパ語族・オーストロネシア語族クレオール言語理論

この動画の復習用ページも公開されています。

長いので要点をまとめてみます。これらの動画と文章の作者である出口日向氏は理系の言語オタク観点から言語を分析されています。

  • アイヌ語を世界680言語と比較(Wiktionaryという辞書サービスを使用)

  • アイヌ語基本単語930単語中、414単語を調べて、現段階で96.8%の由来を説明できている(アイヌ語沙流方言を使用)

  • アイヌ語の元になった最も近い2つの言語がインドヨーロッパ語族 トカラ語Bと、オーストロネシア語族 タガログ語

  • トカラ語が話されていたのは中国北西部 タリム盆地(新疆ウイグル自治区)

  • トカラ語はインドヨーロッパ語族のご先祖様的な特徴を持つ(イタリック語派とインド・イラン語派の両方に似ている)

  • Wikipediaに載っているアイヌ料理5つ中、3つはインドヨーロッパ語族由来といえるほど強い関係がある

  • ただし、アイヌ語はインドヨーロッパ語族ではない!人称代名詞についてインドヨーロッパ語族と共通点を共有しない

  • インドヨーロッパ語族には存在していないアイヌ語の文法として、1.所有の表現に譲渡可能性が存在すること、2.「私達」の表現にClusivity「包含性」が存在することの2点がある

  • これを解決するのがオーストロネシア語族

  • アイヌ語特有と思われていた接頭辞がそっくりそのままタガログ語に存在している

  • 日本語にもオーストロネシア語族の影響が見られる

  • アイヌ語、日本語、オーストロネシア語族で共通単語が見られる

  • 縄文語は現代では絶滅したオーストロネシア語族の言語である

  • アイヌ語の成り立ちは、インドヨーロッパ語族とオーストロネシア語族の単語・文法が混ざったものと思われる(クレオール言語)

  • 根拠1:アイヌ語の構文はオーストロネシア語族のものとは大きく異なる

  • 根拠2:アイヌ語の動詞の活用についてはインドヨーロッパ語族由来で、それを簡略化した可能性がある

  • 根拠3:単語については両語族が混ざっているものの、人称代名詞や家族、移動に関するものはオーストロネシア語族の影響が強く見られる

トカラ語の時代と文化

Wikipediaからトカラ語の関係部分を拾い出して見ます。

トカラ語

起源・文化
トカラ語派を話す人たちはミイラのDNA型鑑定の結果、後述のアファナシェヴォ文化を担った集団と非常に近く、個体の7割が南シベリアに特徴的なミトコンドリアDNAを持っていたため、北方から南下して来たことが明らかになった。タリム盆地では紀元前2千年前後といわれる遺跡[注 3]が発見されており、これらは上述の鑑定結果や葬制の類似から、紀元前3千年紀の青銅器時代初期に北方のアルタイ山脈方面に栄えたアファナシェヴォ文化人が西からインド系集団に征服されながら南下してタリム盆地へ移り住んだことが判明しており、アファナシェヴォ文化はトカラ語と強い関連があると考えられている。
アファナシェヴォ文化はヤムナ文化と同源の文化と考えられ、トカラ語派の担い手はY染色体ハプログループR1b-M269と想定される[7]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E8%AA%9E

トカラ語はアファナシェヴォ文化やヤムナ文化と関連を持ちます。

アファナシェヴォ文化

紀元前3500年から2500年頃、中央アジア北東部からシベリア南部にかけて栄えた文化で、銅器時代後期ないし青銅器時代前期に当たる。シベリア・ミヌシンスク盆地のアファナシェヴォで最初に発掘調査されたが、現在のモンゴル西部、新疆ウイグル自治区北部、カザフスタン中東部にまで広がっていた。さらにタジキスタン・アラル海方面の文化も関連があるとされる。

生活様式は半遊牧的牧畜と考えられる。牛、羊または山羊、馬を飼育したが、野生動物の狩猟も行ったようであり、ともに出土する例が多い。葬制に特徴があり、墓槨は円錐形または矩形、多くは仰臥位に埋葬されて赤土がかけられ、環状列石が立てられた。集落遺跡も多数発見され、金属製品と車が発見されている。

他の文化との関係
多くの学者が、アファナシェヴォ文化が中国への冶金の導入に関与している可能性があると示唆している[16][17][18]。特に、アファナシエヴォ文化と馬家屋文化および斉家文化との接触が、青銅技術の伝達と関連があったと考えられている[19] [20]

アファナシエヴォ文化には、初期の 盤坡文化 (紀元前 4000 年頃) からの文化的借用も示されている可能性があり、アファナシエヴォ文化やエニセイ中期地域のその他の文化複合体に対する極東、特に新石器時代の中国からの影響が示唆されている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A9%E6%96%87%E5%8C%96

ストーンサークル(環状列石)

これはもうWikipediaに記載されているとおり、ストーンサークルがトカラ語と日本をつなぎます。

日本のストーンサークルの起源についてWikipediaに次の説が記載されています。

ストーンサークルの密集域が円筒土器文化圏(東北北部)と重なっていること、円筒土器は遼河文明と関連していること[6]、遼河文明と関連する三内丸山遺跡[7][6]からもストーンサークルが発見されていることから、日本にストーンサークルをもたらしたのはY染色体ハプログループNに属すウラル系遼河文明人[8]と考えられる。ただしウラル系民族に環状列石を造る文化は元来なく、東アジアに環状列石を伝播させた集団はY染色体ハプログループR1bに属す集団と考えられる。彼らはトカラ語派の担い手[9]としてアルタイ地域まで到達していたことが明らかとなっており、アファナシェヴォ文化では、ストーンサークルを伴った墓槨がみられる。その文化が東進して遼河文明に入り、ウラル系遼河文明人を介して日本にもたらされたと考えられる。秋田県に多いJCウイルスEu-a2(JK)タイプ[10]もこの流れと共にもたらされた可能性がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB

遼河文明・興隆窪文化

遼河は、中国東北部、河北省内蒙古自治区吉林省遼寧省を流れ、渤海北部の遼東湾に注ぐ川です。日本語を含むトランスユーラシア語族の故地であるとする説が2021年に提出されました。中国文明の源流は、遼河文明・黄河文明・長江文明の3つである、というのが近年の有力な説です。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E

遼河文明

遼河文明(りょうがぶんめい)は、中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年頃から存在したと考えられている。

発見
1908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。

文化
大規模な竪穴建物が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇といった神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている[1]。
興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されており、櫛目文が施された平底円筒土器、けつ状耳飾りなどが出土している[2]。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。夏家店上層文化からは最古の遼寧式銅剣が発見されている。
(中略)
遼河文明遺跡における6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析では、ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループNが60%以上の高頻度で認められる[5]ほか、ハプログループNの担い手であるフィン・ウゴル系民族と関連する櫛目文土器の最古のものが遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年 - 紀元前5400年)の遺跡で発見されている[6]ことから、遼河文明を担った集団の少なくとも一部はウラル語族を話していた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E

縄文中期アジア文化圏

https://twitter.com/4ti3ti2sp/status/1790538488758366717

遼河文明の興隆窪と三内丸山から北海道を含む円筒と示された部分に対応が描かれています。先ほど「ストーンサークル」の項でみたように、なぜか、遠く離れた地域で文化の伝搬が見られます。

興隆窪文化

興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)は、中国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて紀元前6200年頃-紀元前5400年頃に存在した新石器時代。紅山文化に先行する遼河流域の文明(遼河文明)のひとつとされる。

特徴
興隆窪文化は、ヒスイなどの玉製品(玦 : けつ)の出土する文化としては中国最古のものであり、なおかつの出現する文化としても中国最古のものである。
興隆窪文化の遺跡からは櫛目文を施した平底円筒土器やけつ状耳飾りが出土する[1]。黄河文明のほかに、先史中国の新石器文化が南の長江流域および北の遼河から発見されているが、興隆窪文化は遼河文明の一つとして重要である。(中略)

周辺地域への影響
興隆窪文化の円筒土器に類似する平底円筒型土器が朝鮮半島北部からアムール川流域、ロシア沿海地方にかけての広範囲で紀元前6千年紀頃から紀元前2千年紀ごろまでの間に発見されているほか、同様の土器が縄文時代の日本の東北地方・北海道からも発見されている。三内丸山遺跡から出土している円筒土器やけつ状耳飾りなどは興隆窪文化と類似する[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E9%9A%86%E7%AA%AA%E6%96%87%E5%8C%96

興隆窪文化の時期は、アファナシェヴォ文化よりも3000年程早いものの、この時期の遼河文明には、ウラル系住民が多くいます。のちに、紀元前3000年前頃にこれらの住民にトカラ語系のY染色体ハプログループR1bに属す集団から環状列石の文化が伝わり、次いで日本に伝わった可能性が考えられます。

さて、この興隆窪文化のヒスイですが、原産地はどこでしょうか。詳しくは書かれていませんが、ヒスイの加工技術を古くから持っていたのは、糸魚川の縄文人で、朝鮮半島まで糸魚川のヒスイが渡っているそうです。

 縄文時代にこの地で利用が始まったヒスイは,北海道から 沖縄県まで全国に運ばれ,中には海を渡って朝鮮半島にも達 しています.古代において黒曜石などさまざまな岩石が利用 されましたが,ヒスイほど広範に伝播したものはありませ ん.ヒスイの利用は縄文時代前期(約7000年前)に始まり, 大珠や勾玉などに加工されヒスイ文化が花開きました.これ は中米のオルメカ文明(約3000年前)やマヤ文明(約2000年 前),中国清朝の乾隆帝の時代に始まったヒスイ文化(約250 年前)よりも古い,世界最古のヒスイ文化です.また,日本 人と宝石の関わりとしても日本最古であり,世界でも最古級 のものとなっています.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc/116/Supplement/116_Supplement_S143/_pdf#:~:text=%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%81%93%E3%81%AE%E5%9C%B0,%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%9B%20%E3%82%93%EF%BC%8E

一方、大陸産のヒスイの産地はトカラ語の話されていた新疆ウイグル地区・タリム盆地・後の月氏の領土です。

中国の玉彫工芸史
中国において玉は中国では美しい石、宝石の総称で、古くから実用品や装飾等の材料として用いられた。玉の中でも特に翡翠が珍重されたことから、玉は翡翠の意味としても使われた。
玉器すなわち玉彫工芸品は、中国の伝統工芸品において重要な位置を占める。璧・琮などの玉器は古くから作られ(古玉)、「和氏の璧」などの故事の題材にもなっている。
なお、草創期の玉器には石英や滑石も含むが、故宮博物院に収蔵されているような玉器のほとんどは軟玉である。
古い時代の中国では、特に白色のものが好まれており数々の作品が残っている。これらの軟玉の産地は、現在の中国新疆ウイグル自治区に属するホータンであり、他の軟玉より硬く籽玉(シギョク、シは米へんに子)または和田玉(古くはコーラン玉)と呼ばれていた。

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%83%92%E3%82%B9%E3%82%A4_%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%8E%89%E5%BD%AB%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E5%8F%B2#google_vignette

これで、ヒスイの産地であるトカラと縄文がヒスイを利用していた遼河文明を通じて一応つながりました。

三内丸山交易センター(紀元前約3,900~2,200年 現在から約5,900~4,200年前)


https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/door/

この時期、縄文人は広く交易をおこない、糸魚川のヒスイや北海道の黒曜石などが青森の三内丸山遺跡に集まっています。南方のイモガイも中継地を経ながらかもしれませんが、見つかっています。

勾玉(まがたま)などのアクセサリーにしていたヒスイは、新潟県の糸魚川(いといがわ)からとれた石が、日本じゅうに運ばれていました。
道具を作ったり直したりするときに、接着剤(せっちゃくざい)として使っていた天然のアスファルトは、秋田県から新潟(にいがた)県にかけての産地から、土器がらを容器にして運んでいたことが分かっています。そのほか、本州のあたたかい海にしかいない貝で作ったアクセサリーが、北海道から見つかっています。また、北海道ではイノシシも本州から連れてきていました。もともと北海道にはいない動物ですが、儀式(ぎしき)などに必要だったようです。

https://jomon-japan.jp/kids/archives/934/

このように、今から5000年前の世界で、すでに広くヒトの移動が見られ、インドヨーロッパ語族のトカラ語とオーストロネシア語語族の縄文語からアイヌ語が誕生する可能性ができあがっていました。もうすこし具体的に、ストーリーを考えてみましょう。

円筒土器

先に「遼河文明」で見たように、縄文時代前期の日本と大陸を結ぶ要素の一つが円筒土器です。Wikipediaの該当項目から要点をまとめてみます。


  • 円筒土器(えんとうどき)は縄文土器の一種で、東北地方北部から北海道地方南西部にかけて分布する。平底の深鉢が円筒形を呈することから命名された。

  • 青森県青森市の三内丸山遺跡や秋田県大館市の池内遺跡、秋田県能代市の杉沢台遺跡や北海道函館市のサイベ沢遺跡など巨大集落をともなう時期の土器であり、口縁部に文様帯を区画して設け、さまざまな押圧縄文によって装飾をほどこす点に前期・中期を通じた特色がある[1]。

  • 類似する平底円筒型土器遼河地域[2]、朝鮮半島北部からアムール川流域、沿海州にかけての広範囲で紀元前6千年紀頃から紀元前2千年紀ごろまでの間に発見されており、ハプログループN1を担い手[3]とする遼河文明との関連が指摘される[4]。

  • 円筒土器文化圏の北側の境界線は概ね石狩平野であり、それ以北の道北・道東地方には北筒式土器文化圏、南側の境界線は概ね秋田市-田沢湖-盛岡市-宮古市を結ぶ線で、その南側には大木式土器文化圏が広がる。

  • 東北地方で北海道産の黒曜石が、北海道で新潟産の翡翠が大量に出土するなど、津軽海峡をわたる人々の交流と物資の輸送はきわめてさかんであった。

  • この文化圏では縄文時代後期になると、秋田県鹿角市の大湯環状列石、青森県青森市の小牧野遺跡、秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡など「ストーンサークル」とよばれる祭祀遺跡が数多くつくられ、晩期にはきわめて精緻で工芸的水準のきわめて高い亀ヶ岡式土器や遮光器土偶、藍胎漆器をはぐくんだ地域としても着目される。

中国東北部から朝鮮北部、アムール河沿岸、沿海州を経て、日本の北海道南部から東北北部に至る地域で、おそらく文化的な交流があったと思われる状況があります。

日本海の海流


アイヌ語関連古代地図

日本海には南から北に流れる対馬海流と北から南に流れるリマン海流があります。うまく利用すれば、反時計回りに一周できそうです。

5000年以上前の縄文時代から文物の交流があったのは確かですが、まだそのルートは解明されていません。

縄文時代の遺跡から出土する大陸系文物
これまでごくわずかに大陸のものに酷似する遺物が国内から出土しているが、明確に伝播ルートが解明されたり、直接の系譜関係が明らかにされた例は極めて少ない。たとえば、山形県内で青銅のナイフが採集されており、形態としては殷代のものに類似し、周辺から縄文時代後期から晩期の遺物が出土するが、確実に縄文時代のどの時期の層に入っていたのかはもはやわからず、その他の青銅製品も大陸系遺物も発見されていない。

後に述べる極東平底土器の時代の前半期に石刃鏃という独特の矢尻を用いる文化が広く東北アジアに分布していた。これと同じ形態の矢尻を持つ文化が縄文時代早期に北海道の東部にだけ現れる時期があり、狩猟主体の道具が目立ち、同時期の他地域の遺跡にはある植物加工用の石器が見られないことから、異質性がうかがえ、おそらく大陸系統の文化の直接の到来があったのではないかと想像できる。縄文時代の中では終末期に九州北部に水田耕作や磨製石剣など大陸からの技術や道具がもたらされた時までこれほど明確に異文化の渡来が明らかな例はない。
この石刃鏃文化の遺跡で知られ、また最近類例が増えて注目を集めているのが、石製アクセサリーである。石製の装身具の中でも、細い切り込みのある環形の耳飾り(状耳飾り)が中国からも出土することは以前から気づかれていた。しかし、分布が長江流域の中国南部に偏っていたために直接の関係を想定しがたい状況であったが、より古いタイプのものが中国北部や沿海州の遺跡からも発見されるようになり、北回りの結びつきが想定できるようになった。重要なのは同じような形態の耳飾りだけが出土しているのではなく、その他の数種の特定の石製アクセサリーと一緒にまとまりとして出土することである。このことから、単に形態だけが類似する他人のそら似ではなく、どのような形の装身具を用いるかの情報が共有されていた可能性が高いのである。ただし、それ以外の遺物には共通点は見いだせず、装身具のみが伝わったかのように見えるので、どのような形の情報交換が行われたのかの解釈は今後の課題である。

https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/2000dm2k/japanese/02/02-07.html

この山形県で見つかった青銅のナイフというのは、山形県遊佐町の縄文後期遺跡から見つかった青銅刀子で紀元前1300年頃の殷代のものだということです。

ルートとしては、沿海州から間宮海峡を渡って樺太にわたり、宗谷海峡を渡って北海道に至るルートと、対馬海流とリマン海流を利用して日本海を反時計回りに一周するルートが考えられるのではないでしょうか。いずれにせよ、当時津軽海峡両岸に住んでいた縄文人は沿岸を航海する技術に長けていたので、縄文人が主体となって大陸に渡航していたとしても不思議ではないと思います。

クレオール語

アイヌ語がインドヨーロッパ語族の言語とオーストロネシア語族の言語のクレオール語であるとして、では、クレオール語はどのような状況の場合に生まれてくるのでしょうか。

このページには以下のように記載されています。

 現在世界では何千もの多様な言語が話されている。元は同じだったものが地理的隔離を経て新たな言語となることもあれば、人の移動による異なる言語同士の出会いがクレオール語と呼ばれる新しい言語を生み出すこともある。
 共通の言語を持たない二つ以上の集団が意思疎通のために形成する言語を「ピジン」という。ピジンは多くの場合文法が簡略、語彙数が少ないという特徴を持ち、その場限りのものにすぎない。しかし、時にピジンを母語として獲得する話者が出現し、その言語を「クレオール語」という。代表的なクレオール語にはポルトガルにより支配された西アフリカのカボ・ベルデクレオールやギニア・ビサウクレオールがある(図3)。その他日本統治時代の台湾で生まれた宜蘭クレオールなど、植民地支配とともに生まれるケースが多い
 異なる言語同士が出合ったとき、互いにどのような影響を与えるのだろうか。学部3年次の留学先のポルトガルでクレオール語に触れて以来クレオール諸語の研究を進める市之瀬敦教授(上智大学)は「まず初めに起こると考えられるのが単語の借用です」と語る。歴史上、商取引の場面などで力のある集団の言語の単語をベースとして、ピジンが生まれることもあった(図4)。「密な交流が進むと、それまでなかった発音や文法までもが借用されるようになることもあります」
ピジンを母語とする話者が現れ、クレオール語が定着するにはどのような条件が必要なのだろうか。「よく言われるのが島嶼性、つまり閉じられた空間であることです」。実際、ハワイ島やプランテーションなど閉鎖的な空間でクレオール語は発達している。「支配者の言語に容易に接触できるとその言語を身に付けられてしまうので、ある程度遠い存在でありつつ接触不可能でもない距離であることが重要です」。クレオール語が生まれやすい条件として、支配者:被支配者の具体的な比率を指摘する研究もある。
 クレオール語では政治・経済・軍事的な「支配・被支配」の関係がそのまま「語彙提供言語・被提供言語」の関係に反映されることがほとんどだ。「支配している側の言語が、元からあったことばに覆いかぶさる形ですね」。そのためマカオやマラッカなど、ナショナリズム意識の高揚を見せたアジアでは、かつて多くの地で話されていたクレオール語はすでに消滅しつつある。しかし「アフリカのカボ・ベルデでは国中どこでもクレオール語を喋りますし、公用語にしようとの動きもあります」。クレオール語は人々のアイデンティティーともなっている。

https://www.todaishimbun.org/origin_of_words20191220/

アイヌ語がクレオール語であるとすると、オーストロネシア語族の縄文語を話していた縄文人が、インドヨーロッパ語族の民族と商取引を行うか、支配された時期を経る必要があると思われます。その時期はいつで、どこで起きたのでしょうか?

アイヌの歴史

同じくWikipediaからアイヌの歴史のうち関連しそうな部分をまとめてみます。

  • アイヌの歴史は縄文時代からアイヌ文化期まで、周辺文化を選択的に受容しつつ緩やかにかつ連続的に移行していったとするのが定説である[1][2]。こうした考古学的見地は、ヒトゲノムによる研究とも親和的である。

  • アイヌ文化には古くから狩猟採集というイメージがあるが、考古学的な研究により交易を中心とした文化と捉え直されるようになった[5][6]。北海道は古代から周辺地域との交易・交流を通して広域的な文化が接触する領域であった。アイヌはその交易を担っていく中で、周辺地域の文化を選択的に吸収・翻案して独自の文化を形成してきた。

  • 道内の縄文文化は石狩低湿地帯および黒松内低湿地帯を堺として道東・道央・道南に大別されるが、道南は縄文時代を通じて本州北部と一体の文化圏を形成していた[10]

  • 2023年現在、最も古い土器は帯広市から出土した約1万4千年前のもの

  • また道内の縄文早期の特徴として石刃鏃文化が挙げられる。石刃鏃とは白滝黒曜石を原料とし漁撈用の鏃とされ、道東北部を中心に石狩平野からサハリンアムール川流域まで分布している[12]。石刃鏃と共伴する土器はアムール櫛目文に類似する文様をもち、樺太経由で(大陸を)南下した人々がいたと考えられる

  • 縄文後期から晩期にかけて葬送儀礼に大きな変化が起こり、環状列石や集団墓地が現れる。

  • 道内から出土する糸魚川のヒスイ八戸市是川中井遺跡の漆から検出された道産の硫化水銀、道内で出土するイノシシの骨などから、本州との交易および祭祀等の信仰・思想の共有があったと考えられている

縄文早期から大陸に石刃鏃を持ち込んだ人々があり、大陸との交流があったことがわかります。また、環状列石がみられるようになるのは、縄文後期から晩期にかけてであるため、アファナシェヴォ文化の影響を受けて縄文語がアイヌ語化したとすると、縄文後期になってからであるということがわかります。つまり、円筒土器文化圏のいて言語交替が起きたことになるでしょう。また、円筒土器は遼河文明から伝わったものではなく、縄文人が伝えたものである可能性が高いのではないでしょうか。

無理やりストーリーを考えてみる

言語のクレオール化が進むためには、親の世代が意思疎通のために作った簡単は混合言語(ピジン言語)を、そこで育った子どもの世代が文法規則を備えた独自の母語(クレオールで言語)にする(pdf)必要があります。

縄文前期から海を越えて大陸に渡っていた縄文人たちですが、海を渡っていたのは、男性だけだろうと思います。というのは、交易に出るのは男性であったからです。また特に盛んだったのは、筒形土器文化圏だったろうと思います。

紀元前3000年頃、そうした男性の一人が持ち込んだヒスイ製品を、同じくヒスイを産出する地から遼河文明圏にヒスイを交易品として持ち込んだトカラ語話者が見て、ヒスイの加工を依頼しようと持ち掛けたとします。

糸魚川のヒスイ加工技術者たちが筒形土器文化圏の縄文人に連れられて遼河文明圏に長期出張を繰り返して、トカラ語話者とやりとりしながらタリム盆地産のヒスイを加工する中で、ピジン語が生まれていきます。出張縄文人の中には若い男子も含まれており、出張を繰り返す中でクレオール化していくものとしましょう(かなり強引ですね)。こうしてアイヌ語が生まれていきます。

トカラ語話者から学ぶのは言葉だけでなく、技術や社会制度、宗教的な概念も含まれていたかもしれません。環状列石はそこに含まれます。これにより、こうして誕生したアイヌ語話者は、他の縄文人よりも優位になります。

やがて、トカラ語話者自らがヒスイ加工技術をぬすみ、縄文人による長期出張はなくなりますが、糸魚川出身のアイヌ語話者たちは、日本での文明の先進地であった筒形土器文化圏に移り住み、勢力を伸ばして言語交替が発生したのです。

かなり強引なストーリーですが、遼河文明で糸魚川産のヒスイがでたり、東北北部から北海道南部で縄文時代の青銅器がでたりすれば、少し信ぴょう性が高まるかと思います。もっとマシな可能性を思い付けば、この記事を更新したいと思います。

本田勝一氏の『ニューギニア高地人』という本は、何度でも思い出す本です。普段仲も悪く戦争ばかりしている部族同志でも交易を行ったりします。今とは違い、カレンダーも会社や学校もない時代ですから、交易というのは情報交換も兼ねた楽しみの一つになっています。縄文時代の人々も、そんなふうに気ままに交易のでかけていたのではないでしょうか。そうした中で、新しい言語が誕生した可能性はあると思います。


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