見出し画像

オリジナルはどこからくる?自分らしい文章を書くために

いつかはnoteでちょっとした存在になりたい。
そのために自分らしい文章を書きたい。

noteをながめていると、アカウント名をみなくても
「あ、これ、あの人の文章だ」
とわかる人がいる。
その人らしさがあるからだ。
唯一無二のスタイルだから、すぐわかる。

「生成AIで作った文だな」とわかる記事もある。
人工的。無機質で冷たい感じが伝ってくる。
こんな印象をもたせる文は書きたくない。

でも自分らしい文章ってなんだろう?
どうしたら身につくのか?

力みすぎない・期待しすぎない

自分に期待しすぎると力んで「らしさ」が消える

「とっておきの記事を書いてやる」
と意気込んでタイピングしてみる。
書き終わった文章をながめていると、到底予期していたものとは遠い文字の羅列がならんでいる。
理想と現実の差に絶望した。恥ずかしいほどに。
そんな経験があるひとは多いと思う。

自分に期待しすぎているのではないだろうか?
なかなか記事が書けない、筆が止まってしまう人は期待しすぎなのだ。

イメージしたとおりに美しい文をスラスラ書ける人は、一部の選ばれし人たちだ。
多くのnoterは、自分の手から生まれた文章の完成度の低さにもがいている。

しかしそこで落ち込みすぎたり、note投稿を止めている場合ではない。
絶望してからが理想の文章へのはじまり。
憧れる文章を盗んで、まねして磨いていく。そうやって少しずつ形にすればいい。

自分が書いた文章の質に落ち込むのは、理想が高い証。とてもいい心がけなんだ。理想に1ミリでも近づくよう努力する。そのこと事態に価値がある。

飾らない素直な気持ちでかく

本音で書くのは怖い。

日記ではない投稿する記事は、誰でもあるていど装飾したものを書こうとする。
形式上の言葉を入れたりする。
読者に気を使った言い回しを入れ込む。
私は配慮していますよと伝えるために。

それは自分らしい文章からは遠のく。
本心ではないからだ。そんなことを書きたいんじゃないからだ。

書きたいことを書いて魅了してしまう、天才的な書き手に誰もが憧れる。
自分の哲学や考えを臆することなく書いてしまう。
賛否両論ありそうなことでも、おかまいなく意見する。
そんな文章のファンは多いものだ。

自分とは正反対の意見でも、引き込まれる力があるから読み込んで納得してしまう。

どうしたらそんな書き手に近づけるのか?

素直になることだ。
余計な遠慮やごまかし、偽善をとりのぞいた純粋な気持ちを書く。

心で強く思っていることなら、そこから生まれる文章は説得力が違う。
ありのままに、思ったとおりを表現するのは不安だ。
どんな批判や反対がくるかわからない。馬鹿にされるかもしれない。

だけど一目おかれるようなオリジナリティーを出したいなら、裸を晒す必要はある。
とりつくろった言葉の羅列なら生成AIがいくらでも生み出せるから。


この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?