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イーストビレッジ90年代前半

暇なので、いろんな人のNoteのPostを、1日でたぶん20個くらいは読む。

ささっと読めて爽やかな気分にさせてくれるのやら、おもしろい情報をいただくものだったり、初々(ういうい)しい感覚に触れて遠い昔の自分を思い起こさせてもらったり、いろいろと(ツボはうまいもんの話なんですが)。そんな中で、何週間かに一度くらい、中身がとても「濃いぃ」内容のに出くわす。

それは、文章が優れているとか、内容が驚きだとか、そういうことではなくて、書かれているいろんなもんが書き手の内部で反芻されて醸成されてやっと吐き出されてきたような、読むとそんな感じを持ってしまうやつ。往々にして、内容が僕自身の過去の記憶にかぶるようなものが多いが(おっさんのが多いか。。。)

そんなPostのひとつがこれ ↓。最近ご無沙汰なので筆を折られてしまったのではないかと心配なんだが、この料理人のチャーリーさんの描く90年代前半のニューヨークというのが、なかなか濃いぃ。90年代前半だから、はや30年前。30年分の記憶の反芻を繰り返して、よけいな青くさい感情は気化して消え去り、大事なものだけ濃く熟成されてでてきたような感じがある。そこには計算された意図とかもなくて、熟成の結果としての深みが、短い文章にある。

自分も91年末から96年までそこに住んでいたからという、半分自慢しているような共通項があるのが大きな理由だとは思うが、ちょっとした細かい街の描写が、自分の脳裏の奥深いところに隠れてた記憶を刺激してくれる。

なお、マンハッタンに住んでた、とか書くと、かっこいいなと聞こえるかも知れないが、当時、ローワーマンハッタンあたりで貧乏生活していた人にはよくわかると思うが、あの頃のあそこらへんは、混沌で猥雑として、ボワリーとかはプーンと道に住むホームレスの臭いが漂う、なんともディープなところだった。途上国のようでもあった。もちろん、マンハッタンの他の地域にちょっといけば、そこは世界の富が集まっていたり、芸術の最先端があったりということはあったが。

チャーリーさんが書いている、14丁目から南の東のほうの場所、所謂「イーストビレッジ」に僕も同じ頃に生息していた。

セントマークスプレイスを左に曲がりファーストアヴェニューまで突き抜けると東4丁目にある自分のアパートまではすぐだった」とあるが、8丁目の別称であるSt Marks Placeには、Ira Jacksonというユダヤ系の名前の黒人のおっさんのサックスの先生が住んでいて、毎週末、彼の家にレッスンでお邪魔していた。それを更に東に行くとアベニューAでトンプキンズ・スクエアという公園にぶちあたるのだが、その公園の南側の古いアパートの4階だったかに、仲の良かったジャズ・ミュージシャンの日本人夫婦が住んでいて、よく酒をさげて歩いていって飲みにお邪魔していた。

イースト・ビレッジは、場所としては歴史的には、20世紀始めの頃とかにヨーロッパからの移民がまず入国して住み着いたあたりで、ユダヤ系の長屋みたいなのの名残とか、ウクライナ人地区とかいってウクライナ料理屋が並んでたり、ちょっと東欧ってな感じもした。中華街やらイタリア人街があるローワーマンハッタンで、さらにいろんな文化がひしめいていた下町地域。4、5階建てのかなり古い石造りのアパートが並ぶ、碁盤の目のような古い地域。

なぜか、日本人の美容師の卵たちが、ニューヨーク修行と称してその地域にあった?専門学校とか語学学校に籍を置いてマンハッタンの美容院で修行していた。セントマークスあたりには、たしか「良人」という名前の居酒屋があって(90年代の当時は居酒屋はまだ少なかった。客も日本人中心)、あるとき店に入ったら店名は「いーすと」だと知り、なんだ駄洒落か、東北弁みたいだなと思ったのを今でも覚えている。名前は忘れたが、ジャズ喫茶というかお酒が飲めるジャズがかかっている日本人経営のバーもあって、数回だけだが行った。University of Streets?だったか不思議な名前の週末深夜にジャムセッションをやるライブハウスみたいのもあった。

たぶんチャーリーさんがよく歩いたあたりであろう、ファーストアベニューのセントマークスをちょっとくだったあたりに、小さな間口のテイクアウト専門のフライドポテト単品の店があって、メニューはフライドポテトだけだったが、チリ味やら、できたてのポテトにかなりインパクトのある味付けしたのを売っていた。もうちょっと南に下ると、たしか4丁目だったか、ある一角が全部インド料理のところがあって、辛くて美味いインド料理を食べに行っていた。Mi tenampaとかいうメキシカンもあって、テーブルの横でカートの上で作ってくれるグアカモレが美味かった。

そのファーストアヴェニューと東4丁目の西南のコーナーにコリアングロサリーがあり二十四時間営業で店の軒先にはメロンやオレンジ、パイナップルなどフルーツやたいていのスーパーマーケットにあるのと同じ品揃えで野菜が綺麗に並べてある」とあるが、このグローサリー、つまり、家族経営の雑貨屋というか小さな食品スーパーのようなところだが、80年代以降当時は、軍政だった韓国からの移民してきた家族が経営している店が全米の大都市に結構あった。

残念ながら、僕は10丁目より北とかの店を利用していたのでこの4丁目のは知らない。たぶん行ったことはない。グーグルのストリートビューでみてみたら、まだ角に、店はあるようだ。30年たっておそらくオーナーは変わってしまっているだろうけれど。こういう店はたくさんあったし、今でもまだまだ残っているのだろう。

僕がNYに住み着いた91年末というのは、米国では91年にたしか韓国人グローサリーで万引しようとしたと勘違いされた黒人のティーンエージャーの大柄の女の子が店主にピストルで射殺されるという事件があったり、92年の春先だったか、全米を揺るがしたロドニー・キング事件というのがロサンジェルスであって、若者ロドニーに殴る蹴るの暴行をした警官が無罪となったときに各地で抗議運動が起こり、それが暴動へと拡大した都市もあった。僕の勤めていた会社もその金曜だったかの午後は半ドンとなって、危ないから自宅へ帰れということになった。家でCNNをつけてみていたが全米が騒然とした感じだったのを覚えている。でも、家の周りはとくに何もなく、イーストビレッジも静かだった。

あれから30年、BLM運動が広がった昨年のアメリカ、そしてコロナ禍の中でヘイトクライムが報道される2021年のアメリカ。おそらく、ヘイトクライムが毎日あるわけはなく、数少ない卑劣な事件がメディアによってテーマ性をもたされて拡散されているというのが実態だとはおもうが、変わってないなあとも思う。

ロドニー・キング事件のあとくらいだったか、スパイク・リーが「Do the Right Thing」という強烈な名作を世に出している。映画は、コリアン・グローサリーじゃなくてイタリア人ピザ屋での黒人とイタリア人の衝突をテーマとしていたが、それぞれ、普段は普通に生活している人たちが、なにかの拍子に怒りを爆発させてしまうというような構図。監督はどちらに加担するわけでもなく、ただ淡々と事件を描いていた感じがした。

改めてチャーリーさんの短いPostを読んだら、テンションは高いんだが、一方でごく日常を切り取ったような情景が、淡々と再現されていた。

これとまったく同じではないが、こういうような光景、当時は時々遭遇した。人種間のテンションだったり、都市ゆえの苛立ちだったり。このPostの事件に自分が出くわしていてもおかしくないくらい、こうしたテンションがあのころの生活にはあった。

チャーリーさんのPostでも、だれが正義だったかもよくわからないし、だからなんだという意味も削ぎ落とされていると勝手に読み取ったが、でも、あのころの空気をありありと伝えていて、文章の端々がそれぞれ深い。メロンを盗んだ黒人のおじさん、それをとがめる韓国人の店員、通りすがりのタクシー運ちゃんに白人の若者集団。変な演出のない事実、それが故に深い。たぶん深夜をすぎた真夜中に、あの街角に人だかりができて、それでおさまってなにもなかったかのような日常が続く。そんな光景を描いただけだが、うーんと唸らせられてしまった。■

(チャーリーさん、フィルモア通信続編、読みたいですねえ。。。)

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