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Netflix『オザークへようこそ』Season 4 フィナーレ

5年前から楽しませてもらっていた、アメリカのクライム・ドラマの最後の7話のリリースが先週あって、一気見してしまった。

いやあ、凄かったの一言。

多くの展開でこちらの想像をはるかに上回って、歯止めなく暴走する登場人物達のほとんどは死んだが、家族は残った。

以下、ねたばれ若干ありの感想。

筋はいまどきググればどこかにあるとおもうが、一言で言うと、シカゴとそこから南西へたぶん半日くらい車でいったところにあるミズーリ州とカンザス州にまたがる避暑地オザーク湖を舞台とした、麻薬組織犯罪クライム・サスペンス・ドラマ。

主人公は、シカゴでフィナンシャル・アドバイザーをやっていたごく普通の中流よりちょっと上くらいの中年の男とその家族。

ごく真面目であまり野望もない会計士みたいな男が、ひょんなことからメキシコのドラッグ・カルテルの資金洗浄に関わってしまい、どんどん泥沼のような犯罪へと引きずりこまれるが、自分が殺されないため、家族を守るために、ワルたちの罠を乗り越え、更には欺いて、しばしば絶望的になりながらも生き残る方法を模索する。その過程で、カルテル同士の抗争やらFBIやら、上院議員やらカジノ設立やら財団設立があったり、犯罪ドラマらしく、おびただしい数の人間が消されていく。準主役級の俳優があっさり撃ち殺されたりする。そこには日本のドラマみたいに敵役が大見得きって死んでいくような配慮はなく、大物俳優も暴発したような銃弾一発で即死する。

傑作の犯罪ドラマ「Breaking Bad」と同じ基本構造があった。あくまでもごく普通の中流階級の真面目なアメリカ人の白人家族が、アメリカを覆う犯罪と暴力に翻弄されるが、その中で、どうにか decency、道徳的なまっとうさを保ちながらサバイブしていく。そんなドラッグやら殺人やらの無茶苦茶な犯罪ドラマの展開のなかでも、家族としての危機や子育てでの親子の対立を乗り越えていくというような構図。けっこう基調として流れる話は、普通の人が共感できる家族ドラマではある。

メキシコのカルテルだけでなく、中西部アメリカのラストベルトの田舎が舞台なので現地の red neck とかヒリビリーとか蔑称される低教育・低所得の犯罪に手を染めた白人一家も登場して、彼らはドラマの展開のなかでことごとく殺されていってしまう。ドラマの第二のヒロインみたいに存在感をみせるヒルビリーの若い女性ルースは、最後のほうまでしたたかに生き残っていく。

かたやメキシコのカルテルのほうも、主要な幹部はことごとく死ぬ。裏切り裏切られ、家族をとても大事にする建前と冷酷な組織の掟の狭間で。アメリカ人からするとカルテルは恐ろしい闇のような存在だが、単なるワルでなく、主要人物の人物像はしっかりと描かれている。

ここらへんの構成はすごくいい。現代の縮図のような世界観がある。

米国の断絶の問題みたいな最近の視点からいっても、シカゴの裕福な家族だけじゃなくて、日本語でいったら地方のヤンキーみたいな若くして前科者のルースの「救い」の話が並行して走っていたという点で、感情移入の幅が広がっていたのでは。ドラマ序盤からルースもかなりのワルなんだが時々見せる純粋なところがあり気になる存在なのだが、じわじわと存在感を増していく。

主人公のマーティは、地味で、まったくヒーロー然としてないんだが、メキシコの麻薬組織や地元の犯罪グループとも、しかたなく自分のサバイバルのためではあるが、ごく普通にビジネス・ライクに別け隔てなく接する。必要な騙し騙されもしながら、ときに死を覚悟しながら。しかたなく、自らの手で殺人まで犯しながら。善良な一市民が翻弄され暴走するが、ワルにもちゃんとフェアな意思疎通をとろうとする。あたかもかつてのフィナンシャル・アドバイズの顧客に対応しているように。ここらへんうまく演じられていてジェイソン・ベイトマンが凄い。こう書くと陳腐になってしまうが、この地味なアメリカ人が一時はカルテルの臨時ボスとして冷徹な粛清をやったりする。

妻のウェンディは、最初はごく普通の主婦然とした人物として現れるが、だんだん話の展開で暴走していく。隠されていた若い頃の父親との確執からくる深い闇をみせながら、とても品のよい女性ながらドラマで一番の策略士でワルの本性を顕しながら。ここらへん、アメリカ社会が持っている、うわべはまっとうな女性政治家に対する強い不信が表されているのか?ルースの対局として描かれる。

言葉がきたないヤンキーのルースもかなりワルで、決して彼女が更生していく話ではないのだが、ある意味、筋を通す、あまり裏がない人物として、主人公のマーティも翻弄されながらも、ある種の信頼を置くようになる。ある意味、米国の分断はウェンデイ対ルース的な構図で、そこに、双方につながる主人公のマーティが位置づけられているのか?マーティは妻ウェンディにひどいことされながらも基本は家族として愛しているし、暴走するルースも根はまっとうで信頼できると信じようとしている。

このルースを演じているのが、Julia Garner という金髪の女性で、外見に似合わない?下品さがいい。Inventing Annaや Maniac というほかのドラマでも見たが、このルース役が強烈すぎてすべてルースがでてきたように思えてしまうほど、はまり役。

昔、80年代か、映画で「ブルックリン最終出口」という、悲惨で、救いようのないドラマをみてしまったことがあったが、そこにでていた若き頃のジェニファー・ジェイソン・リーという女優を思い起こした。その映画で、たしか娼婦役の彼女は惨殺されて死ぬのだが、悲惨すぎる話のなかで唯一の「救い」が彼女を軸に描かれていた。それを思い出した。

結局、レッド・ネック、低所得層の犯罪ファミリーはことごとく殺され、最後のほうではルースはひとりぼっちになってしまう。メキシコのドラッグカルテルのファミリーも主要人物はほとんど殺されてしまう。

米国の分断からの和解みたいなことを期待しても、その答えはほとんど見えてこないのだが、犯罪ドラマでトチ狂って暴走する展開のなかで、家族の存在を軸にいくばくかの人間性というか decency があるのが、このドラマが示す「救い」なのかなと思ったりした。

改めて、5年前のシーズン1のエピソード1の初回を観てみた。なにやら、抽象的ながら、深いことを言っていた。

こんな内容(記憶なのでそんなに正確ではないが)。

お金は、成功や幸せや安心の尺度ではなくて、我々がする選択の結果の尺度である。

意味深そうだが、なんだか意味不明ではある。■

(タイトル画は、ギャラリーから美術館ので山の風景を拝借)

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