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気づいて放すことはできますか ?

ひとは、何も考えず生きていると当たり前になり、得を考え、楽を考えるんじゃ。
毎日を良く生きること、悪口を言わずに、人を思いやって生きることはとても難しいんじゃ。楽な事を考えて、人を利用して、人の噂話や悪口を言って生きた方が話題性もあり、その場も盛り上がるじゃろう。
人の良い話しは、羨ましいと思っても、話題性に乏しいし、自分の心の状態によっては嬉しいとは思えないもんじゃ。
自分のことじゃないから、当然と言えば当然だが正しく生きるのは大変じゃ。
体温のある暖かいものではなく、冷たくて勝手な世の中になってしまったのう。
多くの情報だけが速く行き交い、ものを知っているだけで、身に付かなくても成長した気になって勘違いする若者が横行する時代になったもんじゃ。
大切なものやことの真理を見誤らないで良く生きることは本当に難しいし、実践するのは困難を極めるのう。
人間だから、嫌なことはいっぱいある
でも、嫌なことに出会うたび、人を嫌って遠ざける方向に解決策や落としどころを決めていく人と、それでも人を嫌わずやり直す方向に解決策や落としどころを最終的に決めていく人とでは随分と異なる道を歩むことになるんじゃ。
毎日、その選択を繰り返すうち、気がつくと進む道は、随分と違ってくるもんじゃ。
なるべく自分の心の内を穏やかに保つことじゃ。
そのためには自分のことに集中して生き方、在り方を考えるように意識するのじゃ。
嫌なことから、自分が気付けることに気づいたらあとは、執着せずに、恨まず、嫌わずに放すことじゃ。
ひとにされたことを分かったうえで赦すという行為は、人間の尊厳のなかでもとても尊いものなんじゃ。
交通事故やそのほか恨んでも恨み切れない事件等によって、ずっと裁判を続け、何年も経った時に罪を背負ったものをその家族が赦す場面がたまにあるじゃろ。
あれは、罪を背負ったものだけを赦しているのではなく、その家族もずっと背負ってきた苦しい自分の心を赦しているのじゃ。相手に関係なく、本人がきめているんじゃなぁ。
気づいたうえで赦すという行為は、そう簡単にできる行為ではない。
しかし、自分の心を楽にして解放してあげる唯一の方法でもあることは確かなんじゃ。
どうじゃ、ひとのためだけと思うとなかなかできないものじゃが、お互いのためであると思えば赦してみようかと思えそうかい?はちべいちゃん。