金木犀

金木犀の香りがする。
季節は秋だ。というのに、昼間は一向に夏という感じがする。
けれど朝と夜はいっちょ前に寒くてうんざりする。
少し肌寒いからと言って、私はノースリーブにセーターだとか、スカートに短くて厚手の靴下をはくだとか、そういうちぐはぐなこと(そういうどちらともつかない中途半端なこと)がどうにも苦手だ。
冬なら冬、夏なら夏、秋なら秋、そういうはっきりとしたもののほが好きだし、性に合っていると感じる。

今日、久しぶりに歌を歌った。
インターネットで調べた、コンピュータがなくても歌をを録音することができて、携帯につなげれば編集することも出来るという録音機器を手に入れてからというもの、私は時々気が狂ったように夢中で歌を歌う。気が付いた時には2.3時間経っているのは当たり前だし、そういうとき、特にお腹も空かない。ただただ、自分が納得するまで、何度も、何度も、歌を録っては録っては録るのである。時にはギターを持ち出してきて、特に上手ではないギターをシャラランラン、シャラランランとかき鳴らす。かき鳴らす、というほど大したものではないけれど。
歌や絵や文章は、どうもはっきりとしない、どっちつかずのもののように思われることが多いが、私はそれらすべて、この世にあるどんなものよりもはっきりしているように感じる。どれもこれも、実態がなく、不確かで、だけど確かにそこにある。
テレビのニュースで、お偉い政治家たちが話していることより、数学や理科の授業より、天文学的な計算より、私にはどっちつかずではないというように感じる。
だから私は歌うことが好きだ。
読むことも、描くことも、感じることも好きだ。
けれど最近という最近、本当に私は外に出なくなってしまった。
季節はいま秋になってこの間まで夏だったように思う(私は四季の中で最も夏が好きだ。こちらもとてもはっきりとしている気がする。雲の形とか、スイカの匂いとか。)
けれどもその間、私がどんな風に生きていたか、その記憶がないのだ。
昔はそれもひどく散歩をするのが好きな子供だった。
近所を歩けばいつもの散歩の常連メンバーと顔を合わせたし、そこで挨拶とも、挨拶でないともとれるよな会話や会釈をした。
外を歩いていると、私が本当にとてつもなくちっぽけな存在だという感覚に襲われる。私はその感覚が好きだった。
なにか少し落ち込むような出来事が起こると私は大抵決まって散歩に出た。
散歩に出るとき、季節や、気温や、天気はさほど重要なことではなかった。
暑いなら日陰を歩けばいいし、寒いなら安いコートとマフラーを巻けばいい。雨ならば傘を差せばいいし、雨に濡れたいなら傘を差さなければいいのだ。とても、簡単なこと。ただ、外に出さえすればいいのだ。
そこには漠然としていて、そしてとても確かな世界がどこまでもどこまでも広がっている。ある一つだけの思想とか、誰かが考える幸せとか、失敗とか、そういうものに悩んでいる私を笑うのでなく、慰めるのでなく、ただここにいる、という感じだ。私はそういう世界の在り方がとても好きだと感じる。私もそういう女人になりたい、とも。



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