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和歌山県 高野山を歩く(6月15日) 壇上伽藍①


ここに来ました時は
もう、16時を回っていました

しかも、霧が出てきまして
写真も暗めになっています

蛇腹路

伽藍入り口から
東塔東側付近までのびる小道を
「蛇腹路」と呼びます。
高野山はお大師さまが
「東西に龍の臥せるがごとく」
と形容され、
壇上伽藍を頭として
現在の蓮花院(れんげいん)までを
龍が臥している形に例えたのでした。
そして、ちょうどこの小道が
龍のお腹付近にあたることから
蛇腹路と呼ばれるようになりました。

東塔

大治2年(1127年)、
白河院の御願によって
醍醐三宝院勝覚権僧正
(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)
によって創建されました。
当初は
上皇等身の尊勝仏頂尊
(そんしょうぶっちょうそん)が
本尊として奉安され、
不動明王、
降三世(ごうさんぜ)明王の
二体も脇侍(きょうじ)として
まつられました。
天保14年(1843年)に焼失してから
しばらくの間再建されず、
140年たった
昭和59年(1984年)に
ようやく再建されました。


手水場

三昧堂

済高(さいこう)座主
(870年~942年)が
延長7年(929年)に建立されたお堂で、
もともと
総持院(そうじいん)境内に
存在していました。
済高師は
このお堂で「理趣三昧」という
儀式を執り行っていたため、
三昧堂と呼ばれるようになりました。
後に壇上へ移されるのですが、
修造にかかわったのが
西行法師だと伝えられています。

三昧堂の前の桜は、
西行法師手植えの桜として、
西行桜と呼ばれています。
伝説には
このお堂を修造した記念に植えられたそうです。
現在の建物は
文化13年(1816年)の再建です。


大会堂

鳥羽法王の皇女である
五辻斎院(ごつじさいいん)内親王
というお方が、
父帝の追福のため建立されました
もとは別の場所に
建立されていたのですが、
長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として
壇上に移し、
蓮華乗院(れんげじょういん)と
称するようになりました。
後にこの論議は衰退し、
現在では
法会執行の際の集会所的役割を
担うようになりました。
現在の建物は
嘉永元年(1848年)に再建された
五間四面のお堂


不動堂

建久8年(1197年)、
鳥羽上皇の皇女である
八條女院(はちじょうにょいん)内親王
というお方が発願され、
行勝(ぎょうしょう)上人によって
建立されました。
もともと
一心院谷
(現在の金輪塔<きんりんとう>所在地付近)に
建てられていましたが、
後世になって伽藍へ移築されました。
現在の建物は
14世紀前半に再建されたものです。
お堂の四隅はすべて形が違い、
四人の工匠(こうしょう)が
それぞれの随意に
造ったためと伝えられています。
当初は阿弥陀堂であった
と推定されていますが、
後に不動明王を本尊とし、
八大童子(はちだいどうじ)が
奉安されました。
この八大童子は
運慶の作として有名で、
現在は霊宝館に収められています。


愛染堂

建武元年(1334年)、
後醍醐天皇の
綸命(りんめい)によって
四海静平(しかいせいへい)、
玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を
祈るために建立されました。
本尊は愛染明王で、
後醍醐天皇の御等身といわれています。
昔はこのお堂で
不断愛染護摩供
(ふだんあいぜんごまく)や
長日談義
(ちょうじつだんぎ)が行われ、
「新学堂」とも呼ばれました。
このお堂も何度か罹災し、
現在の建物は
嘉永元年(1848年)に
再建されたものです。


大塔

お大師さま、
真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして
816年から887年ごろに完成したと伝えられます。
お大師さまは、
この大塔を
法界体性塔とも呼ばれ、
真言密教の根本道場における
シンボルとして建立されたので
古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と
呼んでいます。
多宝塔様式としては
日本最初のものといわれ、
本尊は胎蔵大日如来
周りには
金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、
16本の柱には
堂本印象画伯の筆による
十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、
四隅の壁には
密教を伝えた、八祖(はっそ)像が描かれ、
堂内そのものが
立体の曼荼羅(まんだら)として
構成されています。


まあ、晴れていたら、と思います
どんどん霧がかってきています

金堂

高野山御開創当時、
お大師さまの手により御社に次いで
最初期に建設されたお堂で、
講堂と呼ばれていました。
平安時代半ばから、
高野山の総本堂として
重要な役割を果たしてきました。

現在の建物は7度目の再建で、
昭和7年(1932年)に完成しました。
梁間23.8メートル、桁行30メートル、
高さ23.73メートル、入母屋造りですが、
関西近代建築の父といわれる
武田五一博士の手によって、
耐震耐火を考慮した
鉄骨鉄筋コンクリート構造で
設計、建立されました。
内部の壁画は
岡倉天心に師事し
日本美術院の発展に貢献した
木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、
「釈迦成道驚覚開示
(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や
「八供養菩薩像
(はっくようぼさつぞう)」
が整えられました。

本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、
洋彫刻の写実主義に関心をよせ、
江戸時代までの木彫技術に
写実主義を取り入れて、
木彫を近代化することに貢献された、
高村光雲仏師によって
造立されました。


お大師さまが鋳造を発願され、
真然大徳の時代に
ようやく完成したと伝えられています。
火災などで度々鐘楼が焼失し、
三度ほど改鋳されました。
現在の銅鐘は
天文16年(1547年)に完成したもので、
直径2.12メートルの大鐘で、
日本で四番目に
大きな鐘であったことから
高野四郎
呼ばれるようになりました。
現在でも
毎日午前4時、午後1時、午後5時
(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、
午後9時、午後11時の
5回に分けて
時刻を高野山内に知らせています。


三鈷の松

金堂と御影堂の中間に
瑞垣で囲まれた松の木があります。
この松の木に
このようなエピソードが残っています。

弘法大師が
唐より帰国される折、
明州の浜より
真言密教をひろめるに
ふさわしい場所を求めるため、
日本へ向けて
三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる
法具を投げたところ、
たちまち紫雲(しうん)たなびき、
雲に乗って
日本へ向けて飛んで行きました。
後にお大師さまが
高野近辺に訪れたところ、
狩人から
夜な夜な光を放つ松があるとのこと。

早速その松へ行ってみると、
そこには唐より投げた
三鈷杵が引っかかっており、
お大師さまは
この地こそ密教をひろめるに
ふさわしい土地である
と決心されたそうです。

その松は
三鈷杵と同じく三葉の松であり、
「三鈷の松」として
まつられるようになりました。
現在では参詣者の方々が、
縁起物として
松の葉の落ち葉を持ち帰り、
お守りとして大切にされています。

正直、「ない」です
ほんとうに運があれば、と
いったところでしょうか


御影堂

もとは、
お大師さまの持仏堂として
建立されましたが、
後に真如親王直筆の
「弘法大師御影像」を奉安し、
御影堂と名付けられました。
桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの
向背付宝形(ほうぎょう)造りで、
堂内外陣には
お大師さまの十大弟子像が
掲げられています。
このお堂は
高野山で最重要の聖域であり、
限られた方しか
堂内に入ることは許されません
でしたが、
近年になって
旧暦3月21日に執行される
「旧正御影供」の前夜、
御逮夜法会
(おたいやほうえ)の後に
外陣への一般参拝が
許されるようになりました。


鐘楼

准胝堂

本尊の准胝観音は、
弘法大師が
得度の儀式を行う際の本尊として
自ら造立されたと伝えられています。
この准胝観音は、
伽藍が建立された当時、
食堂に安置せられていた
と伝えられています。
その後、
天禄4年(973年)頃になって、
この堂が建立され、
移動されたということです。
幾たびも焼失しましたが、
現在の堂は
明治16年(1883年)に再建されました。
なお、このお堂では毎年7月1日に、
准胝堂陀羅尼会
(じゅんていどうだらにえ)
と呼ばれる法会が営まれています。


孔雀堂

正治元年(1199年)、
東寺長者の延杲(えんごう)は、
後鳥羽法王の御願によって、
神泉苑(しんせんえん)にて
祈雨の修法を行い、
見事大願を成就されました。
その功績により
高野山へ建立すべき宣旨を受け、
翌年の正治2年には
本尊が奉安されました。
昭和元年(1926年)、
金堂より出火した大火によって
焼失しましたが、
昭和58年(1983年)には
弘法大師御入定1150年御遠忌
記念事業として再建されました。
本尊の孔雀明王像は
快慶作で重要文化財に指定され、
現在は霊宝館に収められています。


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