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【ルーツ】ルーツ探しの発端⑥ 新情報???

2019年8月のこと。

母と2人で、牡鹿半島を
ドライブしてきました。
突端まで行き、その帰り道、
支倉常長公がローマに向けて出帆した、
月浦の港に寄りました。

慶長17年(1612年)、常長は
第一回目の使節として、
サン・セバスチャン号で、
ソテロとともに浦賀より出航するも、
暴風に遭い座礁し遭難。
再度仙台へ戻り、
現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船、
サン・ファン・バウティスタ号で、
慶長18年9月15日(1613年10月28日)に
月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。

支倉常長公

「私たちの40年!!
あるぜんちな丸同船者寄稿」

こちらのサイトから、
抜粋させていただきました。

慶長18(1613年)年10月28日、
サン・フアン・バウティスタ号は

伊達政宗が派遣する慶長遣欧使節団員、
宣教師、スペイン人船員
及び日本商人を乗せて、
無事仙台藩領内の月ノ浦港を出航した。
仙台藩文書によると、
乗組員、乗客は計180余人だった。

内、名前が分かっている者は

支倉六右衛門、今泉令史、
松木忠作、田中太郎右衛門、西 九助、
内藤半十郎、九左衛門、内蔵充、
主殿、吉内、久次、九蔵の十二名である。
尚支倉以外の者の身分は不明である。
幕府御船手奉行向井将監忠勝の家人、
10名ばかり。
南蛮人、40名ばかり。

この内、名前が分かっているものは、

ルイス・ソテロ、ヴィスカイーノと
三人のフランシスコ会宣教師、
ディエゴ・イバニェス、
イグナシオ・デ・ヘスス、
グレゴリオ・マティアス
である。


氏名不詳の南蛮人は、
ヴィスカイーノ配下の
スペイン人船員だった。

その他商人120名、とある。

商人の中には、
忠勝配下の船頭、水夫、と
ソテロが乗り込ませた
亡命志望のキリシタン信者等が
紛れこんでいた。
合計180余名であった。

尚、正確な乗船者名簿は、
未だ発見されていない。


もうひとつの資料、
「中條帯刀と中條流産科」


なんと、この文面の中に、
乗組員として、
「松木忠作」なる人物が、
乗船したことが書かれている。

母方祖父の実家は、
仙台市若林区荒浜、松木だ!

荒浜地区は、ご覧の通り、
2011年3月11日、東日本大震災が発生。
午後14時46分、大津波が襲い、
壊滅した地区です。

荒浜小学校は、
現在、震災遺構として整備され、
見学ができます。

荒浜地区、深沼海岸にあります、
震災慰霊塔と、
損壊した、八大龍王を祀った場所。
石碑は割れました。

荒浜小学校と、
海岸の真ん中あたりに流れる運河は、
貞山運河といい、日本一の運河です。

伊達政宗公時代に掘削が始まった運河で、
江戸時代から明治時代にかけて
数次の工事によって作られた
複数の堀(運河)が連結して
一続きになったもので、
「貞山堀」とも呼ばれている。
その名称は
明治時代の改修時に
伊達政宗の諡(おくりな)
(瑞巌寺殿貞山禅利大居士)に
ちなんで名付けられたものである。
貞山運河は
阿武隈川河口から松島湾までの
水路であるが、
松島湾から鳴瀬川河口にかけて
東名運河があり、
さらに鳴瀬川河口から
旧北上川の石井閘門まで
北上運河が続いている。
貞山運河、東名運河、北上運河を
合わせた総延長は約49kmであり、
これは日本で最も長い運河系である。

と、あります。

貞山運河の南方面 名取、岩沼へ

北方面 松島、石巻へ

松木は、母方祖父の本家、
仙台市若林区荒浜。

東日本大震災の大津波に遭い、
深沼海岸沿いの地区は壊滅。
親戚は、津波前に全員、避難したため、
助かりました。
この深沼海岸沿い一帯は、
江戸時代、松木家が所有していました。
明治時代になって、
小作人などに、
松木の名字を名乗れば分け与えるとしたが、
その後は、
名字を元のものに直した者も多数おり、
松木は、血筋の者と、
そうでない者がいました。

ただ、わたしの母が言うには、
江戸時代の頃は、
伊達家に侍として仕えており、
慶長遣欧使節団に支倉常長とともに
行ったのではないか
、と言います。

これは、もっと調査が必要です。

しかし、この貞山運河の近くに、
母方祖父の実家がありましたから、
船で、松島、石巻、牡鹿半島へは、
貞山運河や海を行けば、
容易に行くことが可能です。

大津波が来る前の本家の墓石に、
同じ名前が羅列してあり、
いずれも江戸時代の頃のもので、
後を継いだ者が
同じ名前を継いでいたものと思いました。
ただ、その名前は
わたし自身、覚えておらず。
大津波の後に、
内陸の、違うお寺に墓所を移したため、
確認はとれていません。



牡鹿半島の入り口、石巻市渡波に、
サンファン館があります。

ここで、津波の高さは、8メートル。
船も損壊いたしました。

現在は、老朽化で、
近づくことができません。
今年3月31日をもって、
船は解体する計画でしたが、
なんとか残してほしいと、
裁判を起こした団体がおります。

しかし、宮城県としては、
5月には解体すると申しております。
船体の損傷は激しく、
もう船を修復できる職人がおらず、
その材料の木材も、
これほどのものはなく、
不可能なのだそうです。

なんとも、もったいない話では
ありますね。残念です。

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