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和歌山県 熊野三山を行く➄ 神倉神社 大木までは登ってください



裁判所南 交差点を右折
赤い橋の前に駐車場があります

「下馬」標石は

寛文12年銘のあるもので、黒雲母花崗斑岩製、
高さ1.59メートル、幅43センチメートル、
厚さ17センチ、
同じ材質で地上高26センチメートル、
幅80センチメートルの台
石上に立っている刻銘によれば、
奥州は
南部志和郡の人物が、
子孫繁栄を祈念して
熊野参詣7度を達成したことを
記念したものとあり、
奥州の熊野信仰を今日に伝えている

神橋
社務所
猿田彦神社 猿田彦神
神倉三宝神社
火産霊神、誉田別命

おお!

もうここから、なにやら
異様な雰囲気が!

千穂ヶ峯の支ピーク、
神倉山
(かみくらさん、かんのくらやま、
標高120メートル)に鎮座し、
境内外縁は
直ちに断崖絶壁になっている。

山上へは、

源頼朝が寄進したと伝えられる

急勾配の鎌倉積み石段538段を
登らなければならない。

地元の方から

登りは、賽銭箱の向かって右側から入る

神倉神社の創建年代は
128年頃といわれているが、
神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。

『古事記』『日本書紀』によれば、
神倉山は、
神武天皇が東征の際に登った
天磐盾(あまのいわたて、あめのいわたて)
の山であるという。

このとき、

天照大神の子孫の高倉下命
神武に神剣を奉げ、
これを得た神武は、
天照大神の遣わした八咫烏の道案内で
軍を進め、
熊野・大和を制圧したとされている。

しかし、「熊野権現御垂迹縁起」
(『長寛勘文』所収)には
神剣と神倉山を結びつける
記述はないことから、
天磐盾を神倉山と結びつける所説は
鎌倉時代以降に現れたものと考えられている

高倉下が見た霊夢は、
アマテラスとタカミムスビが
争乱を鎮めるために
タケミカヅチを遣わそうとすると、
フツミタマの存在を
タケミカヅチが進言し、
倉の中にその神剣を置くと
告げられたという内容である。

高倉下は
また
天香山命
(あまのかぐやまのみこと)と
同一とされ、

その名前で
尾張氏の祖先、弥彦神社の祭神
とされている。



布都御魂。

神武天皇による大和平定後は、
物部氏の祖である
宇摩志麻治命
(うましまじのみこと。
天香山命とは兄弟神にあたる)
によって管理される。
崇神天皇の代になって、
石上神宮の御神体となる。
明治時代に
禁足地から発掘され、
現在は神殿に祀られている。



地元の方から

登れない時は
あの大木までは行きなさい

の、言葉に登ってみる

壁、です

🤣💦

あの奥様が地元の方で

毎月、1日、15日にここまで登られて
感謝を申されているそうです
素晴らしい信仰心です

サンダルで登られてきましたので
驚きましたけどね

木肌が温かい
わたしは生きているのだと
感謝しかありません
涙があふれました

年に何回か
落ちる人が出て救急搬送されています

絶対、無理をしないで
くださいとのこと

下り方は

斜めにジグザグに
ゆっくり下りること

だそうです


賽銭箱の

行きとは反対側から降りてきて
そのまま石段を下りず

石畳の端に2つの石が出ていますが
そこが出口というわけです

ここを去る時は
すでに、15時半

もう、那智大社は間に合いませんが

境内だけでも立ちたいと思います

地元の皆様

教えていただきまして
ありがとうございました

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