『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んで。

マイケル・サンデル著、早川書房

■目的

『無敵の読解力』で佐藤優氏・池上彰氏に取り上げられており内容が気になったため。

■感想

文句なしに最高の1冊。
以下、「介護」と「投資」と「仕事」という視点でそれぞれ感想を書く。

〇介護の経験から見る、「自己責任」の無情さ

自分は昔介護の仕事をしており、多くの障害者・高齢者と接してきた。
そのため、生まれつき重度の障害を負っていたり、事故や病気などが原因で健常者と同じように学び、働けない人にも多く会ってきた。

自分自身は健康ではあるが、取り立てて目立った才能や、頭脳を持ち合わせているわけでもなく、劣等感のようなものも人並みに感じてきた。
そういった自分のバックボーンがあるからか、自分の才能と努力次第で幸福な人生を得ることが出来るだとか、貧しい境遇は自己責任であるとは全く感じないし、感じることができない。
「好成績で大学に入り、教員採用試験を突破して教員になった人は、そもそも優秀であるがゆえに勉強が出来ない子供の気持ちが理解できない」、という話を聞いたことがあるが、それと同様に、恵まれた境遇と自分の努力で成功を勝ち取ったエリートには、そこから落第した人や、そもそもその競争にすら参加できなかった人の気持ちを理解するのは難しいだろう。

資本主義は分業や分断を加速させる。
その方が仕事の面では生産効率が高いからだ。
生活や人間関係の面では同じレベル・同じタイプの人と一緒にいる方が衝突やストレスが少なくて済む。
自分にあった集団・コミュニティを求めれば、次第にその層ごとに壁が生まれる。

しかしそうした分業・分断された社会では他者理解がさらに難しくなる。
他者理解が困難になれば、それだけ更なる分断や衝突が増える。

思い返せば、小学校のころは喧嘩やいじめなど諍いが絶えなかったが、
高校・大学と進むほどに同じレベル・同じ志向の人が集まった環境になっていき、とても快適になった。
もしかしたら逆説的に、自分が理解できない人や嫌う人とも折り合いをつけて生きていくスキル、他者理解の力を、その分知らずに失っているかもしれない。

生物は健康のために適度に雑菌を取り入れた方がよい。
また毒を以て毒を制すがごとく、人はワクチンを利用して多くの致命的な病気を超克してきた。
同様に、社会というレベルにおいても異物と接する機会を設けた方が、エコシステムが磨かれて健全なのかもしれない。

また、異なる教育レベルや職種の人と日常的に触れ合う上で、
平和裏に関わり協働する媒介となる、音楽や映画といった娯楽・芸術をたしなみ、趣味を持つこともまた良いきっかけになるだろう。
リベラルアーツに芸術分野が含まれるのもさもありなん。

〇実体経済に貢献しない投資に乗るか反るか

本書にて、「投資は15%しか実体経済に貢献していない」という一文があった。
その場合、投資をして儲けるべきか、投資を排斥して健全な社会に貢献するかという問題が生じる。

私は資本主義は一つの自然であると考えている。
いちDAO(分散型自律組織)として、資本主義社会は需給バランスという恒常性を持ち、人々の欲望をエネルギー源として発展したり衰退したりする。

自然という大きな法則の中では、それに逆らうのは大変なパワーを要する。
資本主義体制に棹させど、より大きな大衆の欲望に流されるだけだろう。

資本主義を構築する一要素であるお金に視点を当ててみると、
誰かが資本を増やすために生み出した「社会に貢献はしないがとりあえず儲かる金融商品」が存在し、またそれが規制されない以上、自分も積極的に利用する方が有利な策となる。
他者がそれを利用し大きく資産を増やすほどに、相対的にそれを利用しない自分と利用しない人々が存在する社会自体が下位に据え置かれるからだ。

仮にそういった金融商品が大きなリスクをはらんでいる場合は、何らかのきっかけによってその商品はやがて淘汰されるだろうが、
それまでにどの程度の期間がかかるのか。
またその代謝による痛みは、どの程度のものとなるか。
その目算を誤ると、失われた○○年は長引き、またバブル崩壊や経済恐慌によるダメージは甚大になる。

グローバル経済の中では、国家間における駆け引きが存在するが、
国家という枠内においては、政府当局がこうした、不健全な金融商品といったものは積極的に精査し規制・排除していくことが求められる。
政府当局を信頼できるのであれば、自分はそうした商品には手を出さず早期に淘汰されることを期待できるが、
政府当局が信頼できない場合は、逆にそうした商品は利用し、資本主義を味方にして(流されてといってもよい)、勝ち残るための修羅の道へ足を踏み入れるのが良い手になる。

実体経済に貢献しない投資商品に乗るか、反するかは、
自分の属する国への信頼度によって変わるだろう。
日本政府や政治家の動きを見るに、新しいものはすぐには規制しない。基本的に日和見であるか、前例踏襲スタイルである。
そして社会問題になったりして世論から声が上がり、風当たりが強くなってきたときに重い腰を上げて対処する。
一国民としては個々人がアンテナを立ててそういった情報はキャッチし、素早く活用または防御し、規制が入りそうなタイミングで抜けるのが良さそうだ。
当然、詐欺は横行するし、ハイリスクではあるが、虎穴に入らずんば虎子を得ずというべきか、ファーストペンギンだけが大きい魚を得られるのだろう。
虎穴に嘴を突っ込むペンギンが道徳的な者であることを祈る。

自分が属する国の政府のかじ取りと、大衆がどちらに向くかを読み取る、難しい選択にさらされて、なんと現代は忙しいことだろう。

〇幸福は消費だけでは充足せず、労働を通じた貢献への承認が求められる

日本では儒教の影響か、勤労勤勉が美徳とされ、高度経済成長期でその行動は報酬を与えられ加速された。
今でも、「人生は仕事のためにあり、仕事を通して人は幸せになる」と謳う考え方は大企業を中心に生き残っている。
(昔読んだ稲盛和夫氏や北尾吉孝氏の著作を念頭においたもの。)

自分はその考え方に長いことネガティブな印象を持ってきていた。
仕事を通じた自己成長に関しては異論はない。
しかし武士道や儒教が根付いた昔の日本ならいざ知らず、アメリカ式の労働スタイルや雇用形態が主流になった現代では、会社のために滅私奉公、懸命に働くことはデメリットが大きい。

ただ本書を読んで、そのネガティブ感情はやや薄らいだように思う。ややだ。

懸命に働いても豊かになりにくいこの時代であるが、
ITの活用によって、既存通貨を介さない生き方は限定的ではあるが可能になりつつある。
その傾向が、YoutuberやNFTやシェアリングエコノミーの存在から感じられる。
こういったツールを活用することで、労働することが幸せに繋がるというレトリックを本来の意味で実現させつつある。


資本主義は自己顕示欲や競争心や虚栄心を刺激して過剰な消費を促すが、
それによる虚しさを知る人は増えているのだろうか。

現代、消費によって得られる刹那的な欲望の充足がもたらす幸福は概ね手に入りやすい。
しかし閾値を超えた幸福はその効果を低減させる。
隣の芝生が青く見えるのは錯覚。知足を心得ねば貴重な人生の時間という資産を失うことになりかねない。
どことなく、今の20代などはその辺りの虚しさや望ましい優先順位付けを肌感覚で感じ取っているように思う。

過剰な消費と過剰な労働を半目に見て、
自分に合った丁度良い仕事量と消費量を見極める人が増えている。
FIREが注目されているのはその一面だろう。

インフルエンサーとの距離感が近いデジタルネイティブ世代は、
量だけでなく質の面でも、自分の味方、自分のファン、自分のフォロワーに貢献することで対価を得る方法を模索している。
他ならぬ私も、彼らから学び、自分に合った働き方、貢献の仕方、消費と生産の仕方を模索しているところだ。

まだまだ恵まれた才能や行動力や需給バランスという偶然性に大きく左右されるとはいえ、
楽しく働き、生きていくという未来をITが助けてくれるため、未来は明るいと言えよう。


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