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『職業遍歴。』 #6 接客業のバイトに落ち続けた陰キャを拾ってくれたパチンコ店事務所

筆者が過去に経験した「履歴書には書けない仕事(バイト含む)」を振り返るシリーズ第6弾。上京して最初に経験した珍しいバイトの話です。

6. パチンコ店事務所の留守番

大学進学のため上京した私は、バイト探しに明け暮れていた。親からの仕送りは月10万円。家賃は58000円。仕送りだけでは生活できないのでバイトをする必要があった。

当時のアルバイト求人誌といえば『フロム・エー』。発売日にフロム・エーを買い、飲食店やコンビニなど自分のできそうなバイトを探し、場所と時給をチェックし、自分の条件と合っていたら電話をかけて面接に行く。私はフロム・エーを見るのが好きだった。掲載されているさまざまな求人を見ながら、そこで生き生きと働いている自分を想像する。それはとてもワクワクすることだった。次に自分がやるバイトは、どんな仕事なんだろう。そこで自分はどんな人と出会い、どんな経験をするのだろう。すべてが楽しみでしかなかった。

大学は夜学だったので、平日の昼、土日の昼夜シフトに入ることは可能だった。飲食店、コンビニ、雑貨屋・・・いくつかのバイトの面接に行ったが、すべて落とされた。毎日のようにシフトに入れると言っているのに、なぜ落とされるのか、さっぱりわからなかった。

当時の飲食店などのバイトの時給は、だいたい800円台。しかし、時給1000円もするバイトがあるのに私は気づいた。それは、パチンコ店のホールの仕事だった。私はもちろんパチンコなどやったこともなければ、お店に入ったこともない。でも時給の高さにつられ、面接に行くことにした。

新大久保にあるパチンコ店だった。面接をしてくれたのは店長の男性。採用ならその日じゅうに電話があるとのことだったが、電話はかかってこなかった。ああ、ここもダメだったか。がっくり。しかし翌日、そこの事務所の女性から電話がかかってきた。ホール係ではなく、事務のバイトをする気はないか?という。ホール係より時給は下がるが、よかったら会って話したいというのだ。この頃、いろんなバイトの面接を受けても受けてもダメで、ちょっとめげていた。事務の経験はなかったが、やらせてもらえるならなんでもいいという気持ちになっていた。

それで私は、再びそのパチンコ店へ足を運んだ。今度はお店ではなく、その裏にある事務所の方だ。

電話をかけてきてくれた女性に仕事の内容を詳しく聞く。そのお店は複数の事業をやっているようで、原宿にも事務所があるのだが、今度原宿の事務所を閉めることになった。事務所から人がいなくなっても、電話がかかってきたりするので、一ヶ月くらいは事務所を開けておく必要がある。それで、その間事務所にいて電話番などをしてくれる留守番係を探しているというのだ。誰もいない事務所での留守番なので、真面目な学生が相応しいと考えていたときに、ホール係のバイトの面接を受けに来た私の履歴書をたまたま見て、「この学生なら大丈夫だ」と思ったという。女性は私に言った。

「文月さんは元々の性格なのか、それとも上京してきたばかりで右も左もわからないからなのか、すごくおとなしい印象がある。そういう人はホール係としては難しいけど、事務の仕事だったらできると思う」

この言葉を聞いて、ああ、これだったのか、と思った。私が受けても受けてもバイトに落ち続けた理由。飲食店などの接客業って、やっぱり性格が明るいとか、ハキハキしているというのが大事なのだ。私のようなおとなしくて真面目な、今風の言葉でいうと「陰キャ」な人間には、接客業は務まらないと思われるのだ。

せっかくのお話なので、私はこのバイトを引き受けることにした。朝、原宿の事務所の鍵を開け、誰もいないオフィスで時たまかかってくる電話に出たり、届いたファックスや郵便物を転送したりする。それ以外は自由に過ごしていてよかった。電話もファックスも滅多になかった。私は昼の間はそこで大学の勉強をしたり、本を読んだり、居眠りしたりして過ごし、夕方になると事務所の鍵を閉めて大学へ通った。大学ではオーケストラのサークルでバイオリンを弾いていたので、毎日バイオリンを背中に担いでいた。オフィスでバイオリンの練習をすることもあった。防音設備なんてなかったから、さぞかし近所迷惑だったろうが、クレームがきたという話は聞かなかった。

そんなラクすぎるバイトを一ヶ月間続けた。この一ヶ月の間、私は徐々に東京に、大学に慣れていった。友達も少しはできた。

このバイトが一ヶ月で終了になったあと、私は再びバイトを探した。次のバイトはすぐに決まった。喫茶店のウエイトレスだ。私は面接のとき、精一杯「陽キャ」のふりをしたのだった。

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