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吉田松陰と宝島の作者スチーブンソン

江戸時代後期の武士であり思想家であった吉田松陰。時代が大きく動き出した日本の幕末、彼の言動は志士と呼ばれた若者に大きな影響を与えた。
吉田松陰(寅次郎)は、西洋に侵食され始めた中国、砲艦の威力のもとに日本国の国体を崩壊させかねない米国の国家主義に憂慮していた。

彼はこの時代、我が国が国家的危機を克服するのには、その主体が禄を食む「在官在禄」ではなく、食禄をもたない在野の志士である 「草莽」の志士であらねばと考えていた。

彼自身をその草莽たる行動主体とし立ち上がり身分制度の膠着による幕府の独占によらない天皇中心の国体の中でこそ、新しい日本国家が存立すると考えた。
これを「草莽崛起」といい、当然ながら自らを草 莽(そうもう)と自覚する中で、なお幕府と諸藩の政治主体の意義を認めながらも、組織に属さない草 莽を皇国の臣民として国家的危機を打開する担い手として、積極的に位置づけるとした。換言すれば従来の身分制度を否定した新平等主義ともいえるものであった。

このように、松陰は天皇の下での平等、 全ての国民が皇国の臣民であるという思想のもと、倒幕運動や革命的な行動を行うことを提唱し、窒息状態にあった当時の下級武士たちに大きな影響を与えたのだ。

片やイギリス人で『宝島』の作者、スティーブンソンが『吉田松陰伝』を書いている。
現在のようなネット社会において彼がヨシダトラジロウの伝記を書いたとの記事を探すのは難しいことではないが、その時代と世界的な文豪との組み合わせはやはり、奇異に映る事実だ。

この事実の驚きは、今も憂国の志士として人気の高い吉田松陰の伝記を国内の誰よりも早く、世界で初めて書いたことだ。

彼はいつ、どこの誰から松陰のことを知ったのだろうか。そしてその内容とは。またイギリス人の彼をして松陰伝を書かしめた動機とは何か。そこに込めようとしたメッセージとは。アメリカ、スコットランド、日本を巻き込んだ謎解きの旅だ。

松陰は、9歳のとき長州藩の藩校明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなるなど、その秀才ぶりは藩主毛利敬親(もうりたかちか)をも驚かせます。
15歳のころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けたことなどを知り、日本も危ないのでは、と危機感を募らせます。
日本の状況を確かめるべく、20歳の頃には長崎や平戸を旅します。
長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の質の高さを知ることになります。
その後も、水戸や会津、佐渡を経てロシア船が出没した津軽半島を巡り、『東北遊日記』などを書きました。

黒船で密航を計画

1854年、24歳のとき、ペリー艦隊が2度目に日本に来たのを機会に、進んだ海外の文化に触れようと、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ、海外に連れて行ってほしいと頼みます。
しかし、この密航の申し出はペリーに受け入れられず、陸に戻った松陰らは牢に入ることになります。
松陰の申し出はペリーの『日本遠征記』に書き留められました。
この事実を知ったイギリスの小説家で『宝島』の作者R・L・スティヴンスン(Stevenson)が「ヨシダ・トラジロウ」という短い伝記を書いたのです。

松下村塾

江戸の牢屋から長州藩の「野山獄(のやまごく)」という牢屋に移された松陰は、1年間に約600冊もの本を読み、また黒船への密航を振り返った『幽囚録』も書きます。
翌年免獄となり実家杉家に幽閉(ゆうへい)の身となりました。その間松下村塾(しょうかそんじゅく)を開き、高杉晋作、伊藤博文ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成したのです。

松陰は諸国を遍歴して見たことや、歴史書などを読んで得た知識などから、50冊以上の著作を書き残しました。1859年、29歳のときに安政の大獄により、江戸で処刑されました。処刑前日に書いたのが『留魂録(りゅうこんろく)』です。
松陰に教えを受けた人びとがその後の明治維新や日本の近代化で活躍したことも松陰の隠れた功績といえるのでしょう。

死を賭しアメリカへ密航しようとしたその強い意志と勇気は、後につづく若者たちに大きな感動を与え、日本の近代化を推し進める人材を数多く育てたのは既に述べました。
しかし意外にも、松陰の生涯を語り継ぐための伝記を最初に書いたのは、日本人ではなくイギリス人だったのです。

以下は地元の記事を参考にして書いたものである。

世界最初の松陰伝ともいえる「ヨシダ・トラジロウ」を書いたのは『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などの作品を通じて、日本でもおなじみの文豪 R・L・スティーウ゛ンスンです。

彼の人生に松陰がどのような影響を与えたのかを、スティーウ゛ンスン自身がつづった文章、及び様々な関連資料によって解き明かされています。

1878(明治11)年夏ごろ、スコットランドのエディンバラ大学土木工学科の教授フレミング・ジェンキン の家で、4人の男が夕食を共にした。その4人とは、正木退蔵、ロバート・ルイス・スティーヴンスン、ジェームズ・アルフレッド・ユーイング そしてジェンキン自身。

正木は長州出身。幕末期に13歳で松下村塾最後の門下生の一人となり、短い間ながら吉田松陰に師事した。明治維新後イギリスに留学して帰国。その後1876年に官吏として再渡英。留学生を監督したり、東大などにお雇い教師を招聘(しょうへい)する目的で、ロンドンやエディンバラを訪問中だった。

スティーヴンスンは作家志望で、土木工学の勉強を怠けてはいたが、ジェンキン教授の教え子だった。また、教授とアマチュア演劇の愉しみを分かち合う間柄でもあった。ジェンキン家は、エディンバラのヘリオット・ロウ17番地にあるスティーヴンスン家から歩いて3〜4分のところにあった。

ユーイングはスティーヴンスンの大学の後輩。ジェンキンの愛弟子だった。ジェンキンは正木に、この有望な若者ユーイングを紹介するつもりで、二人を同席させたのだった。目論見は当たった。ユーイングは後に東大教授として来日し、日本の物理学、磁気学、地震学などの発展に寄与した。

正木と松陰とスティーヴンスン

さて、正木はこの夕食の席でジェンキンとスティーヴンスン、ユーイングとの間の良き師弟愛を目の当たりにして、松陰を思い出したらしい。3人のスコットランド紳士のまえで、自らの師であった人、吉田松陰こと寅次郎先生のことを熱く語った。

安政の大獄による松陰の刑死からすでに20年近くも後のことである。正木の熱弁が約1年後、スティーヴンスンに、吉田松陰(通称:寅次郎)についての短い伝記を書かせるきっかけとなった。運命の出会いの場となった夕食のとき、正木33歳、スティーヴンスン27歳、ユーイング23歳、ジェンキン45歳であった。



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