浅原録郎

静岡県焼津市在住。歴史や思想、哲学的な理解に役立つ内容を中心に書いています。機械技師→…

浅原録郎

静岡県焼津市在住。歴史や思想、哲学的な理解に役立つ内容を中心に書いています。機械技師→自営業、京大教授久松真一先生のFAS協会参加。宗教学や近代哲学を学ぶ。宗教学やキリスト教弾圧に因む「光あてられし者」の他6冊著作。小泉八雲研究者。 武蔵工大精密切削理論特別修学コース卒

マガジン

  • 無意識を意識する 4

    意識や無意識の不思議に迫ります。意識の哲学的意味や生理的働きにも素人ながら分析したものです。素人だから目に鱗的なものがあると思います。

  • 歴史の見方

    機械技師から自営業に転身後京大教授だった久松真一先生の創設した京都FAS協会に参加、宗教学や近代哲学、仏教哲学を学ぶ。機関紙『風信』へ宗教哲学や歴史雑感等多数投稿。Amazonnにて印刷本、Kindleを数冊出版。

最近の記事

芭蕉は哲学者

俳句(俳諧)の魅力は、十七音からなる短い詩文が、一つの世界を創りだすところにある。 俳句の定型には、「季語」と「切れ」がある。季語は季節を示す語であるが、この語は自然の世界を切り取る役割をもっている。 「切れ(切れ字)」とは俳句が一つの「間」を含むことを示している。この「間」は、句が別次元の、あるいは哲学的にいうなら超越論的な意義をもっていることを意味していると考えられる。 「切れ(切れ字)」は俳句が一つの「間」を含むことを示すが、間は詫び寂び、不完全である」という美意

    • ひまわりは枯れてこそ実を結ぶ 堀文子

      三島佐野美術館 堀文子展 堀文子さんは草花を題材にした作品を多数描いており、「花の作家」として知られています。花という命を通し自然の本質、命の輪廻を描き続けたのです。(5年前100歳で亡くなった) 数ある作品群の中でも、花をモチーフにした絵画は国内外から特に高い評価を受けており、死後も日本各地で毎年のように個展が開催され多くの人を魅了し続けています。そのような事情で今回三島佐野美術館で堀さんの作品を見ることが出来たのです。 絵本でも世界的な評価を受け、絵本や挿絵の制作も数

      • 三島 佐野美術館堀文子展 源兵衛川散策

        花や鳥など自然をテーマにした作品を多く生み出した日本画家の堀文子(ほり・ふみこ)さんは2019年2月5日、心不全のため神奈川県平塚市の病院で死去した。100歳だった。 彼女は、命の画家といってもいいのだろう。 2014年5月10日 本県(静岡県)三島市の佐野美術館で開かれている堀文子さんの展覧会に出かけた。彼女の人生観や生命への洞察は、おこがましいが私と似ていて、その創作態度が尊敬できる芸術家である。当日は、平日の金曜日でありながら、会場を埋め尽くしていたのは、中年の女性達

        • スピノザと西田幾多郎 その3

          西田哲学の特徴としてとりわけ重要なのは、いわゆる「述語主義」ではなくいわば双方向主義であり、双方向的な追究こそが中期西田哲学の「骨」となっている。双方向性を核とした内在主義にこそ、スピノザとの深い関わりがあるといわれる。 西田哲学は全体として宗教哲学であり、スピノザ哲学やキルケゴールの思想と同 様、本質的に宗教的自覚の論理である。 西田は宗教が思想の根本であると考えていた。 いっ さいのものは宗教より出て、また宗教に帰るのである。 『善の研究』では、「学問道徳の本には宗

        芭蕉は哲学者

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        • 無意識を意識する 4
          1本
        • 歴史の見方
          15本
          ¥300

        記事

          スピノザと西田幾多郎 その2

          内在と超越・・補完説明  内在とはある存在の本性に含まれ、またとどまっていることである。超越に相対する概念ある。 例えば人の良心は内在によって、権威の介入なしにおのずと罪を悔い改めることができる、そのようなことである。汎神論では神の働きは自然に内在していて、神は世界から超越せる外的存在ではなく人の内在的活動として定義されている。 次に超越もしくは超越論的とは経験を越えて、経験に先だって経験の成立条件を問う際に成立する認識という意味であり、その意味をくんで「先験的」ともいう。

          スピノザと西田幾多郎 その2

          スピノザと西田幾多郎 その1

          最近買い替えたPCに以前のPCからファイル移動していた時、このような記事がみつかった。 この記事がどのような経緯で書かれたのか、どこまで自身のオリジナル的内容なのか検証できていないが、私が以前から関心を寄せる内容なのでNoteに載せることにした。 「知性改善論」「神学政治論」を世に説いた、近世哲学の一つの流れを生 み出した 17 世紀の哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632 - 1677)。 彼の名が現代に語り繋がれ、とりわけ彼の哲学が、現代思想にも巨大な影響を

          スピノザと西田幾多郎 その1

          雪を厭わず真を見る

          本日2024年4月16日静岡市美術館で開催中の細見美術館所蔵の美術品拝観のために静岡市へ出かけた。 細見氏三代がコレクションした品々であるが、文化的僻地で、有名美術展が素通りする静岡界隈であるから車で静岡市美術館へ出かけてみたのだ。 お目当ては、伊藤若冲の絵画であるがその展示数は多くはないだろう。しかし、琳派や江戸時代の工芸、絵画、仏教関連の品々の実物を見るのも悪くはないだろうという思いであった。 今回の代表展示物は「雪中雄鶏図」「糸瓜群虫図」であろうか。 降り積もる雪

          雪を厭わず真を見る

          在原業平と蔦の細道

          直近に書いたNoteの記事のように自分のすべてを桜の花にさらけ出した西行のような歌詠みもいれば、「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」・・・ 本来春は、のどかな季節であるはずなのに、人は桜の花が咲くのを心待ちにしていながら、咲いたと思えば、花が散るのが気になり落ち着きません。桜が存在するから人々の心が穏やかでないことを述べた在原業平のような歌詠みもいる。 在原業平は、平安時代の貴族(825~880年)。父に平城天皇の皇子・阿保(あぼ)親王、母に桓武天皇の皇

          在原業平と蔦の細道

          西行

          新古今和歌集に多くの歌が選ばれた平安末期の出家者であり歌人の西行は、多少でも日本文化や文学に関心を持つ人々の関心を引き付けてきたことは疑いもない。 彼の出家への動機は中宮璋子への恋心だとする説もあるが彼自身そのことに触れていないので詳細は不明だ。 巷に流れているその噂とはこのようなものだ。 仏門に入り「西行」と名乗った佐藤義清(のりきよ)は、18歳のときに「北面の武士」といって天皇家の御所を警護をする役職に就きました。物語はここから始まります。 待賢門院璋子(たいけんもん

          田辺 元

          私は歴史好きである。そんなところから鎌倉や京都によく遊んだ。かの地に残る禅的な考えや教養に関心を持ちやがて京都学派という存在も知った。 ここで少し取り上げてみた田辺元は、西田幾多郎のあと、京都学派を受け継ぎ、絶対弁証法という独特の弁証法を唱えて、国家、宗教、死を思索した哲学者です。 田辺は1885年、代々佐賀藩の儒学者の家に生まれ、家父・新之助、の長男として、東京の神田猿楽町にうまれた。 1912年、27歳で東京帝大大学院を退学し、翌年東北帝国大学理学部講師に就任、191

          不安ということ

          昨年2023年は、千葉に住む弟と埼玉に住む弟を相次いで亡くした。これからしばらくは不幸は続かないだろうと思っていたこの頃、まだ現役の公務員で頑張っていた甥が突然入院していた病院で亡くなったと連絡が入った。頭がよく、生活態度はまじめで、弟たちの葬儀には参列して哀悼を表してくれた。 この地方の進学校を卒業し東京の私大へ、故郷に帰るべき地方自治体の公務員として奉職していた。身近な人の死に感じるものが身を苛む昨今である。 この記事は過去に一部をNoteで公開したが何がしの慰めになれば

          不安ということ

          生命とは その5

          動物、植物、プランクトン、キノコ、細菌等々これらすべて生命体であり、外部エネルギーや負エントロピーの源となる食物や物質を取り込むことで、恒常性を保ち、その生命活動を維持し続けていることをその4では述べました。 熱力学の第二法則は、普遍的な崩壊の法則です。それは、全てのものが最終的には時間と共にバラバラになり、崩壊してしまう究極の原因です。熱力学の第二法則の影響は至る所に現れ、宇宙の全ての物に及びます。それが原因で私たちに死が訪れます。 自然界の全てはこの法則に従っているの

          生命とは その5

          生命とは その4

          私が生きるというのは、生存し続けることで生殖という目的論を達成することであるとしたら、そのことについて、何かに行動を導かれている、と言ってもいいだろう。 その何かとは、おそらく生物科学で唯一、普遍的な指針である「進化」が由来となっているのだろう。このような進化を促す力学的生体系の一つに熱力学的法則があるという。 このような考えの中から明確に浮かび上がってきたメッセージがひとつある。 もしも生物学的な目的論や媒介の裏に、ある種の物理的法則が横たわっているのならば、そこには基本

          生命とは その4

          生命とは その3 

          その2に自然界に生きていかされている私たちの生や死の意味に不完全ながら触れた。 私たちの生や死の意味は人の理性の及ばない混とんの中にあり未だ解明されていない事実と表現したが、生科学的に見ればまた違った見解がある。 生命が死という消去を経て、生殖から新たな個体をつくる不連続で、非常に危ない橋を渡りながら、生命の連続性を保っている、そういうなかに我々の生命というものが生きているという例えを、焦土の中から発芽するパインツリーのマツボックリを介し紹介した。 そして人間を含めた生命体

          生命とは その3 

          生命とは その2

          NHKのWeb特集でこんな記事を見かけた。 ある一人の写真家が20年かけて追い続けている、「森」があります。その名は「ノースウッズ」。北米大陸、カナダとアメリカにまたがる深く広大な森で、厳しくも豊かな自然の中で野生動物や植物などが息づき、貴重な生態系が育まれています。 その姿を鮮やかに捉えた写真集がことし写真界の直木賞とも呼ばれる「土門拳賞」を受賞しました。しかし、話を聞くと最初から思うような写真を撮ることができた訳ではなく、長い時間をかけたからこそ動物たちの姿を写すことが

          生命とは その2

          生命とは その1

          生命としての私とは何なのであろうか。運動体としての肉体とそれをコントロールしているかの如くの脳の作り出した意識の両側面を命と自覚して生きているが、この肉体は自分自身の所有物に見えて、決してこれを意識の制御下に置くことはできないのです。 私たちは、なぜ生まれ、成長し、病を得てやがて老いそしてどのように死ぬのか、予測も選択もできない。いわゆる、生病老死の理である。 そんな確かな事実を背負いながら普段、私たちはすっかりそのことを忘れているのだ。 生きていることが当たり前で計画した

          生命とは その1