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天才だと勘違いした凡人が東京で挫折して本当の自分に気がつくまでの話【厄年ロングインタビュー・前編】

「ウェイウェイって感じで、六本木の遊びをめっちゃしましたね。週末は朝まで飲んではしゃいで。年収600万円あったけど、貯金なんてない。スタッフ全員分おごってたし、むしろ赤字やったから、毎月カードの支払いに追われて……」

森下さんは、港区・六本木の焼肉屋で店長を務めていた。刹那的な楽しみを享受する反面、店長としての苦悩に苛まれていた。仕事がうまくいかない。レジ締めの数字が合わない。顔面蒼白になっていることを、部下から指摘される。その原因が発達障害だとわかったのが、34歳のときだった。

今回、旧知のライター・遠藤光太が、森下さんにロングインタビューを実施した。前編となるこの記事では、オタクだった少年が映画監督を目指し、焼肉店の店長になって挫折し、フェスを開いた記録を残す。

アニメとゲームの“ガチオタ”、主人公を目指す

映画監督になるために、生まれ育った大阪・泉佐野を離れ、上京した。

10代の頃は、アニメとゲームの“ガチオタ”だった。

「『ドラゴンボール』が好きで、漫画をずっと読んでたんですよ。それで、小6のときに『新世紀エヴァンゲリオン』が始まるんですよね。近所の山で遊んでる子どもだったけど、その頃からはもう引きこもりでガチオタ。だってゲームは10時間とかやってましたもん。プレイ時間の表示が大体カンストする。今思えば過集中です。設定資料集とか読むのもめっちゃ好きで。

あと、本も一気に読み切ったりして。『バトル・ロワイアル』の原作の小説、辞書みたいにごっつい分厚いのがあるんですけど、あれを1日で読んだりしました。中学ぐらいから、ちょっとずつ深夜アニメも始まったので、こそこそ夜中にこっそり起きて見ることをし始めました」

高校生になると、パソコンがインターネットにつながった。HTMLでコードを書き、自分のホームページを作った。バイトをしながら、ギターを始めて音楽バンドをしたり、劇団に入って演劇をしたり、文章を書いたり、絵を描いたり……と、表現活動に夢中になった。

「表現活動をいろいろやった結果、これを全部仕事にするためにはどうすればいいんだろう、と考えて、映画監督になればいいんじゃないかと。自分でシナリオを書いて、自分で主演して、音楽も作って、撮影して、映像を作れば、これ全部できる。映画監督や!ってめちゃくちゃ単純に思ったんです」

当時は、新海誠が短編作品『ほしのこえ』を個人で制作し、デビューしていた。

「ついにパソコン1つで、アニメ作品を個人で制作できる時代に突入したんです。『1人でアニメーションって作れるんだ』と」

高校卒業後、一浪して関西大学文学部に入学。並行して、シナリオの専門学校にも通った。また、応援団に所属し、団長も務めた。「自分は天才だ」と、根拠のない万能感が溢れていたと振り返る。

大学を卒業し、映画監督になる夢を追い求めて入社したのは、Production I.G(プロダクション・アイジー)だ。

人生に大きな影響を与えた『新世紀エヴァンゲリオン』の制作にも関わった大手プロダクションである。そのほか、ハリウッド映画『キル・ビル』のアニメパートや『攻殻機動隊』、『黒子のバスケ』、そして近年では『ハイキュー!!』なども手掛けている。

森下さんは、この会社で制作進行の役割を担い、映画監督への道に足を踏み入れた。

本物の天才たちと、映画を作った

「お金とスケジュールの管理をしていました。当時はデジタルの制作環境もまだ整っていなかったから、アニメーターが『描けた』と言ったら深夜だろうが朝だろうが、車に乗って取りに行くんです。アニメ制作会社って西東京にいっぱいあって、国分寺、三鷹、練馬あたりの道にはめちゃくちゃ詳しくなりました。

毎日が文化祭の前日みたいな。みんなでわーっとやって、『できた!お疲れ!』みたいなのが、昔から好きなんですよね」

『テイルズ オブ ヴェスペリア ~ The First Strike ~』
「テイルズ オブ ヴェスペリア ~ The First Strike ~」 special price edition Blu-ray CM

この作品のエンドロールに、森下さんの名前が載っている。約1年、この作品に携わり、ついに完成までたどり着いた。

森下さんは、結果的にこの会社を2年半で辞めることになる。「満足してしまった」と言う。

「映画を作れたんですよ。もちろん僕は監督ではない。でも、試写会で完成した映画を観て、そのスタッフクレジットに自分の名前が出た。僕はなんか『すげえ良かった』と満足してしまった。

でも、それはなぜかと言うと、やっぱり本物の天才にめっちゃ出会ったからなんですよ。『なんか全然俺普通やん』『この人らに一生かけても絶対勝たれへんわ』ってほんまに思ったんです。

当時は、ジブリにもちょこちょこ行ってたし、エヴァを作った人たちにも出会った。シンプルに嬉しかったし、『作ってくれてありがとうございます』と思ってました。そういうときに『自分もいつかは』みたいな気持ちが湧かなかったから」

映画の世界から離れることを決めた森下さんは、飲食業界に興味を持った。

「映画の世界では、別の天才がいたけど、『俺という才能はある』って思ってたんですよ。『飲食業界に行って、ぶいぶい言わせていこう』『俺の店を作るぞ』って、ただ調子乗ってて(笑)」

映画業界にいた経験は、のちに森下さんの人生を大きく支えることになる。

27歳、六本木の焼肉店で店長になる

ANAインターコンチネンタルホテル東京、ホテルオークラ東京、そしてアメリカをはじめとする各国大使館のある六本木一丁目。そこに、森下さんが店長を務めた「焼肉 天 がむしゃら」がある。

飲食業界に入る前、手に取った本が吉田雅巳氏の『鉄板焼きレストラン繁盛の理由 東京で成功する飲食店』だった。その経営哲学に惚れ込み、彼の経営する株式会社テン・スターズ・ダイニングに森下さんは入社した。アルバイトから修行を始め、正社員となり、「焼肉 天 がむしゃら」の店長を任されるまでに至った。

「社長と上司が僕のことをすごくかわいがってくれていたと思います。『がむしゃら』という店名は、僕が『我武者羅(がむしゃら)応援団』という団体に参加していたからと名付けてもらったんですよ。社員の個人的なエピソードが店名につけられたのは後にも先にもこのお店しかなくて。仕事は大してできへんけど一生懸命だなっていうのは多分ずっとあったんかなと思う。

名付けてもらって、店長を任せてもらったからには、ここはもう『自分の作品を作るぞ』と。それが29歳のときでした」

同社の経営で大切にされているのは「笑い」だ。「がむしゃら」は、その哲学をより先鋭的に具現化したお店だったという。「来た人が元気になれる店にしよう」と、店員は皆大きな声を出してにぎやか。外国人客も多かった。

「英語はほとんどわからへんけど、『ヘイ!カモンカモン!』『アイハブグッドミート!』って大声で言ってて(笑)」

週末はランチ営業がなかったため、朝まで遊んでいられた。六本木の街に繰り出して、日中のテンションをそのままに、スタッフや友人たちと飲み歩いた。六本木一丁目に住んでいて、六本木のなかで全てが完結する生活だ。

30歳のときには、「三十路式」と勝手に題したイベントを開いた。「私が誕生日なので皆さん来てください」と。そこでは、自作したPVを流した。今でも動画がアップされている。

The beef or chicken "Endless 30" / presented by 森下智司

「自分で歌詞を書いて、曲は作ってもらって、PVを作って、大人が本気になってふざける。これを30歳の誕生日にみんなに見せるイベントをしました。

もう周りから見たら、変な奴。でもそれを『お前がすごいのは、普通の人がブレーキ踏むとこでアクセル踏めることだ』と言われたことがあって。その辺がぶっ壊れてるんですよ。

これは昔から感覚としてあるんですけど、自分を操縦してるちっちゃい自分みたいなのがいて、そのリトル・モリシタは基本的に煽ってくるんです。『もっとやれやれ』『ここでもっとやったら面白くなるんじゃねえの』みたいな」

しかし、30代に入った頃から、アクセルだけではうまくいかない事態が多発してきた。

店長がうまくいかない。そして精神科へ

店長を4,5年続けていると、上手くいかないことが露呈し始めた。売り上げの計算がいつも合わない。仕入れの発注にミスが生じる。連鎖的に、さまざまな失敗が積み重なってくる。

「あかんかったらもっと頑張る。その方向でしかやってこなかったんで、他にやり方がわかんないんです。『忘れるんやったら紙に書け』と言われて、書くんですよ。でも、その書いたメモをなくしてしまう。どんどん積み重なっていくうちに、そもそもできたことすらできへんくなる。

うわべは元気なように見せて、とにかく声だけ出してる。それで当時言われたのが、『顔色がおかしいよ』と。顔面蒼白になっていたらしいです」

森下さんは、また本を手に取った。それが『発達障害に気づかない大人たち』だった。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784396317195

大学病院の精神科を受診し、知能検査も受けた。診断はADHD(注意欠如・多動性障害)だった。2018年、34歳のときである。

「理由がはっきりしたから良かったなと思ったんです。絶対これやん、と。そうなったらもうしゃあないやん。切り替え早いんですよ、僕。

診断が出たら、その日に上司と社長のところに行って『店長を辞めさせてほしい』と伝えました。最悪、会社を辞めさせられてもしゃあないと思ってましたね。

でも、『じゃあ1回落ち着いて、店長を育てろ』と。『後輩がおるから、あいつを店長にするまではお前はサブとしてついて頑張れ。できることだけでええから』と。

そうして、いちプレイヤーに戻れたんです。やっぱりちょっと楽になるんですよね。管理業務はできへんけど、プレイヤーならできたから。ほんで会社の優しいとこなんやけど、店長を辞めても給料が下がんなかったんですよね。それもすごく恩を感じて、ちゃんとせなあかんなと思って」

森下さんはそれから、ブレーキを踏んだ。具体的には、全てのことに対して「○」「×」をつける作業をした。

六本木に住むことは「×」だった。家が職場に近いと、常に緊張状態になってしまうからだ。あえて通勤に1時間ほどかかる高円寺に引っ越した。100%参加していた飲み会も、多くは「×」だと気づいた。「今日は帰ります」と判断するようになった。

「それまでは、どうしても“あるべき姿”を追い求めてたんですよね。『東京でバリバリ働いて活躍する人はこういう人だ』と。めちゃくちゃ金稼いで、めちゃくちゃ遊ぶのがかっこいいと思ってた。

でも、それが無理だとわかったし、自分にとっての成功ではないことにも気づいた。“あるべき姿”って、みんながなんとなく共通幻想的に抱いているものであって、自分自身が望むものではなかったことに気づけたのはでかいです。

方向修正が必要になるから、まず1個ずつまた積み上げていこうと、『○』『×』を直感的をつけていきました。で、ほとんどが『×』だったんすよね。

その作業を通して、生まれ変わった。これから何ができるかはわからへんけど、『ありがとう』『ごめんなさい』『できることは全力でがんばります』だけはちゃんとやろうと決めました。最初はぎこちない感じだったんですけど最終的には周りも受け入れてくれて、『あいつできることで頑張ってるがええんちゃうん』みたいになっていったんです」

発達障害の診断を受けることは、「こうあるべき」の難しさを自覚せざるを得ない経験でもある。同じく発達障害の当事者である筆者も、診断までに挫折を経験し、「こうあるべき」を手放していったことで人生が好転していった経験がある。

ハッタツフェス、開催!

森下さんは、ADHDであることを明かしながら、Twitterやブログで発信を始めた。ツイキャスでライブ配信を始めると、たちまちリスナーがついた。発達障害バーに行くと、「ツイキャスやってる方ですよね?」と声をかけられた。筆者が森下さんと出会ったのも、この時期だった。

中野の中華料理屋で会って話をした。その場で「フェスを開催しよう」と決めた。森下さんは持ち前の行動力で、翌日にライブハウスを押さえた。もう、やるしかない。

開催したのは、2018年5月6日。森下さんが35歳になる誕生日だ。

森下さんは、「障害があるからあきらめる」のではなく、「障害があってもやってみたい」を大事にしたいと考えた。配信などで呼びかけたところ、10組以上の出演者が集まった。歌あり、コントあり、トークあり、演劇あり、短編映画ありで、それぞれの個性を爆発させていた。

「できへんことはできんけど、できることあるやん。じゃあ、そのできることを全部集めてやってみたらいいんじゃない、と。それがハッタツフェスのコンセプトであり、ひとつの完成形になった。

僕としては、東京に来たことも、応援団やったことも、映像業界で作品を作ってたことも、飲食で働いてきたことも、そして発達障害だったことも、このフェスには全部入ってたんです。全部が一本にバチンとつながって、その結果、目の前がパーっと開けた感じ。それで、今までの自分の全てを肯定できた。

応援団も映像も飲食も全部共通してるのは、自分のやったことで誰かの心を揺さぶりたいということ。僕、ハッタツフェスのエンディングのとき、『これを一生やりたい』って思いました。こういう感覚をずっと味わっていたい。この感覚が味わえる状態をずっと続けていこう、と。自分の成功は自分で作っていくしかない。その覚悟が決まりましたね」

「三十路式」で森下さんはこう歌っていた。

死にたくなるような世界なら
おもろないことまとめておもしろく
それが俺の仕事やねん

そして森下さんは、生まれ育った泉佐野へと帰ることにした。

※後編(泉佐野編)に続く

取材・執筆:遠藤光太


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