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日本原理主義という病

最近のバッシングブーム最盛期の日本の様子を見ていると、全共闘世代の学生運動家たちの『総括』を思い起こさせる。

山本直樹が現在、『RED』という漫画を連載している(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89_(%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%9B%B4%E6%A8%B9) )が、そこに描かれている様子や、実際に当時の全共闘メンバーだったおっさんたちの話を直に聞いた経験からすると、なんとなく通じるようなものがあると思っている。

その時の中心的存在である山の仙人のお決まりの口癖である、『原理主義になっちゃダメなんだよ、原理主義に』というセリフを思い出すことがよくあるのだが、どうも人間というのは原理主義が好きらしい。

この辺を考えてみると、自己同一性(アイデンティティ)を保つために、自分の軸や考えの正当化をしたいという本能があるのかもしれないと思ったりもしたが、日本人もイスラム原理主義やキリスト教原理主義を批判したりしている割には、自分たちも同じような方向へと走ってはいないだろうか?人には根源的に原理主義の心があるのかもしれない。

もう少し深く考えてみる。

マズローの欲求5段階説(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 )を例に挙げて考えてみると、初期の段階においては、主に物理的なインフラや社会システムの構築が欲求を満たす手段となる。

次第にそれが、自分の属する社会の中で、「自分がどんな立ち位置であるか」や、「人とどんな関係を保っているか」という、精神的な部分の欲求がポイントとなるように変化してくるのではないだろうか。

ここでどんなことが起こっているかと考えてみると、初期の生存欲求などが満たされた社会では、情報インフラが整ってくる。そうすると、集団の中での自分の位置のようなものが分かり、これまでは『自分という個が生きるかどうか』という思考だったものが、『集団の中の個』という認識に変わり、群としての生存確率は上がるものの、今度は個としての生存本能が出てくるのではないかという気がする。

つまり、その集団の中で、自分は優れている存在であるという証拠を残さなければ、自分の遺伝子が後世に残せない……というわけだ。

これは生態系においては自然なことであり、そのために力をつけたり、知恵をつけたり、A品人間となるように見た目の形質を整えようとしたり、コミュニケーション能力を磨いたり、より優れた集団に所属しようとしたり、それらのどれにも属さない個としての生存力を磨いたり……と、その方向性は多岐に渡る。

先日、自然界は弱肉強食ではなく、適者生存であるという記事がネット上を賑わせたが、今の日本のバッシングぶりを見ていると、『相手よりも自分の方が優れた遺伝子である』というせめぎ合いをしているかのようにも見える。

一昔前に比べて、今の方がその状況は激しくなっているのではないかと思うのだが、これは生態系においてどういう時かと考えてみると、生存者争いが激しくなる時というのは、植物が栄養生長から生殖生長へと変わるように、『その生物が衰えていく時』だったりするんだろうな、と思ったりしたのだった。

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