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通りの番人

こんにちは、いとさんです。

人通りの多い中心地のcalle(通り)には、決まって手に雑巾をぶらぶら持っている人たちを見かけます。通りを行ったり来たり、はたまたその場に立ち止まって遠くを見つめていたり、何かを待っているかのように見えますけれど、私の目にはとても不審な人に映ります。

彼らはtrapito(トラピート)と呼ばれます。アルゼンチンでは路上駐車が当たり前なのですけれど、彼らは自分たちで縄張りを決めて、路上駐車する人がいればすかさず寄っていき、ここに止めろと場所を指示します。運転手が用事を済ませてその場を去ろうとすると、利用料とも言えるし見張り料とも言えますけど、とにかくお金を払えと言うのです。たった5ペソ前後ですので、日本円にしてみればお駄賃にもならない、ごく僅かな金額です。

trapitoとは、“trapo(雑巾、ボロ)”という言葉から派生しています。ここでもdiminutivoの登場です。私がこれに悩まされている様子を他記事で綴っておりますので、ご興味がありましたらどうぞ。

2018年にはtrapitosを禁止する法律ができたそうですけれど、実際には今でも人が多く集まるエリアには必ずtrapitosがいます。仕事がなく生活の為、やむを得ず続けるしかなかったのかもしれません。彼らの身なりはとても貧しいです。手に持っている雑巾“trapo”からその通り名ができたのでしょうけれど、彼ら自身を「ボロ」と暗に示しているのではないかと思えてきます。その様子はこれまでどこでもみたことのない光景でしたので、ショックを受けました。

しかしアルゼンチン人達にとって、これは当たり前の景色の様でして日頃は彼らを哀れむ様子もなく、彼らに笑顔で接してありがとうと言ってお金を払うのです。彼らの中には親しみやすい人もいて、女性が駐車する場合などには、路肩や他の車にぶつからないよう運転手の死角部分を見ながら「オーライオーライ」という風なことを言いながら、声を上げて駐車を手伝っている姿も見かけます。

一方で彼らがいくら友好的な態度であっても、彼らとの間にトラブルが起きないとは言い切れないようです。不必要に揉め事を起こしたくない、或いは彼らにお金を払いたくないというものは、中心街から少し道を外れたところに車を停めています。同じ時代に同じ国で生きていながら、あまりにも違う生活様式で暮らす人々を目の当たりにすることなく育ってきたせいか、何かが胸につっかえたような気持ちを覚えました。

時々アルゼンチンの人達から諦めのようなものを感じる時があります。言っても仕方がない、やっても仕方がない。人間諦めも肝心と言いますが、なかなかそんな風には考えられない時もあります。いつも白か黒、正義か悪に人は物事を分別したがる傾向にあると思います。日頃は主張することが多いアルゼンチンの人達ですけれど、どことなく曖昧なまま、なる様になるとしている部分を持っているような気がするのです。それが吉となる時もあれば凶となる時もあります。不思議なものです。

こんなことになるなら最初からあぁしておけば良かったのに、と彼らを見ていて思うことが多々ありますけれど、物事が起こるたびに一喜一憂している様子を見ると、これが生きているということかしらんと思います。そうやっていつも彼らから心構えを学んでいる気がします。

いとさん

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