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お母さん

私のお母さんは、ちょっとだけ生きるのがへたくそだ。

周りと関わるのがへたくそなくせに、ひとりが嫌いだ。ほんとは甘えん坊でいじっぱりで万人に愛されたいのに、上手に愛情表現ができていない。世間体ばかり気にするし、喜び方もなんか大袈裟だし、話は3倍くらいに盛って話す。中でも特に苦手なのは親戚付き合いで、兄弟のお嫁さんとかと全然仲良くなれていないのが見ていてわかる。LINEとかで気軽に連絡とってる昔の友達とかも多分いない。

そのくせ不思議と職場では完璧な人でいることができているみたいで、昇進の推薦なんかがバンバンきている。普段家にいても電話しているのは職場の同僚だ。ガス抜きが苦手な分の皺寄せが、出てしまうんじゃないかとも思う。だけどこれは、お母さんを客観視できるようになった今だからそう思えているんだ。

上京前の引越し準備で発掘された、私の昔の『なんでも書いていいノート』にこんな殴り書きがあった。

"これからはお母さんのこと、お母さんじゃなくてゆみさんって思おう。そうすれば悲しくないでしょ。そうすれば期待しないでしょ。そうすれば、ずっと好きでいられるでしょ"

多分、泣きながら書いた。

だけど、仕事をしながら家事も子育てもこなすお母さんを、私は確かに尊敬もしていた。

お母さんのつくる料理はどれも大好きだった。お鍋いっぱいに作るほうとう、豚汁、肉じゃが、カレーもシチューも、何度もおかわりして食べて育った私は、田舎料理が大好きになった。そのせいで胃が大きくなったのか、未だに食いしん坊だ。

それから、ジャガイモやにんじんを煮ているお鍋を見ながら「お風呂に入ってるみたいで気持ちよさそうだなあ。」なんて気付けば素でそんなことを思っていて、そのたびにこれは、お母さんの遺伝子が私の体に刻まれてるって感じるの。

それはきっと、お母さんが温かい料理の仕上げにかける鰹節が、くるくる縮んでいく様子を見るたびに「みてみてメメちゃん!鰹節が踊ってるよ!」って伝え方をしてくれたからなんだ。

「ピーマンの中身ってどうなってるか知ってる?」ってヘタを切って中を見せてくれて、捨てるはずのヘタのほうにインクをつけて「ほら、きれいね」ってハンコみたいにおしてみせてくれたからなんだ。

「お母さん、洗濯物が気持ちよさそうに風に揺れてるのを眺めるのが好きなんだ」って言いながら、家事をするのをみて育ったからなんだ。

レモン汁で10円玉がきれいになるというテレビ番組をみて「やってみたい」という私に、食べ物で遊んではいけないことよりも先に「好きなだけやってみなさい」とレモンと10円玉を手渡してくれたからなんだ。

それから小学生の頃なんかは、お母さんがお休みの日に家に友達が遊びに来れば必ずおいしいおやつを出してくれた。コーンフレークにアイスや果物を添えてパフェを作ってくれたり、なんなら「ご飯食べてく?」って、ピザを焼きはじめたり。

食べる人が食べやすいように果物を切る天才でもあった。お母さんが果物をお皿に並べると、それだけでキラキラ輝いて宝石のように見えた。

ジャガイモを薄くすって揚げて、アツアツのうちに粗塩をパラパラとかける手作りのポテトチップスも絶品だ。


熱が出た時、お母さんが看病してくれたのも嬉しかった。いつも以上に優しくしてくれるから、熱が出て得をしたくらいの気持ちだった。
お母さんが車で小児科の先生のとこへ連れてってくれたのも、今思うと仕事を休んで自分がうつるかもしれない中看病してくれてたんだなって思う。

小学校で体調を崩して保健室で寝てるとき、お母さんが仕事を早く切り上げて迎えにきてくれたときの安心感といったらなかった。昔から誰よりも先に、まだ誰もいない保育園に1番に預けられた。お迎えはもちろん一番最後。小学校にあがると、放課後は児童館で過ごすのが当たり前だった。高学年は鍵っ子だった。だから、熱が出た時にお母さんがおうちにいてくれるのが嬉しくてたまらなかった。おうちでゆっくり寝て過ごして、お母さんがすりおろしてくれたリンゴとたまごのおうどんを食べたらすぐに治ってしまった。もっと熱が出てたら良いのになんて不謹慎なことを考えたりもした。

思えばお母さんは、どんなに忙しくても毎日寝る前に絵本を読み聞かせてくれた。だから私も、本が好きな子に育った。中でも大好きな絵本は、葉っぱのフレディと、泣いた赤鬼。フレディは、誰も教えてくれなかった死ぬっていうことを、丁寧に分かりやすく教えてくれた。泣いた赤鬼は、たいてい人は噂や見た目や憶測で判断されてしまうけれど、自分が本当に信じた友達のことは、周りが何と言おうと友達でいたいと思えた絵本だった。この絵本を読み終わる度にメメは号泣していたんだと、お母さんは笑って話してくれた。本を読み終わった後、おでこに寝る前のキスをしてくれる、愛情深い人だった。

ほらね、嫌な思い出なんて全部忘れて、良かったことばかり覚えているの。

何よりも強いと思っていたお母さんが、歳を重ねるごとに本当は弱くて脆くて生きるのがヘタクソだってわかって、それが自分と重なって、お母さんの子どもなんだって痛烈に感じて、自分を嫌いになる代わりにお母さんを嫌ってしまったのかもしれない。

ごめんねって言いたいことがたくさんある。
ありがとうって伝えそびれていたことも多分たくさんある。

お母さんと離れて暮らすようになって7年が経った。

今いちばん良い距離感で接することができている。お母さんのことが大好きだし、長生きしてもらいたいと思っている。お母さんの両親にあたるおじいちゃんおばあちゃんが立て続けに亡くなった。きっと甘えん坊のお母さんは辛くて辛くてたまらないだろう。SNSだって使えてないし、吐き出す場所はあるのかなって心配になる。

「お父さん、お母さんを守ってね。よろしく頼むよ。」おもわずお父さんにそう連絡した。お父さんとお母さんは今実家で2人暮らしをしている。幼馴染みの2人は、今年還暦を迎えた。60歳か。平均寿命まで生きたとして、あと20年と少しの時間しか一緒にいられないと思うと、すごくすごく短く思える。そんなこと考えたくもないけれど、それより長いか短いかもわからないからこそ、今まで伝えそびれたたくさんの言葉も、ほとんど2人で出かけたことないことも、今になって悲しくなる。

私を生んでくれたお母さん。
本当はずっと大好きなんだ。
大好きだからこそ愛せない部分もあった。
だけどそれも含めて本当は、愛していたんだ。

今のこの距離感は丁度いいけれど、手の届く距離にいなくていいんだろうか。後悔しないだろうか。そんなふうにして思いがせめぎ合う。会えることが簡単ではなくなったからこそ、当たり前が当たり前でなくなったからこそ、本当の気持ちに気付くこともある。

私はここが好き。東京にいたい。一人暮らしは心地いい。だけど、だけど本当は、本当の気持ちは、
私は、お母さんに会いたいんだ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。