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百億年の歴史が今も体に流れてる


「あんた、この漫画を知ってるか」

発売日当日に、秘書が売店で買ってきた連載雑誌を開いて問いかけてきた。本人を目の前にして言うのも申し訳なかったが、私は本当に、その漫画をタイトル以外に何も知らなかった。1話たりとも読んだ事がなく、申し訳なさを感じるくらいだった。それを正直に伝えると、その人は笑った。目は少し寂しそうだったので、心が痛んだ。

そんな私を察してか「あなたいくつ?説明しなければならないね」そう言って、私が知らないと言ってのけた日本が誇る名作漫画について、それをご本人に熱弁してもらうという失礼な構図ができあがってしまった。「たしか父が読んでいたと思います」そういうと「そりゃあ、そうだろう」と笑った。今度は、目もちゃんと笑っていた。常に新しい原稿を書くことをやめずにペンを握るその手は、とてもゴツゴツとしていて大きかった。そのことを褒めると、上機嫌に私の手と重ね合わせ、また言った。

「そりゃあ、そうだろう」

温かな手だった。この手によって紡がれていく物語が、何十年に渡り誰かの日常を幸せにしてきたことを思うと、倍、温かかった。


作品や記憶というものをこの世に残して、「自分」という個体が死を迎える。それはこの世の常であり、死なない人間など存在しない。

そのことはわかっていても、人の死は、いつも、悲しい。



***


先日、祖父が他界した。享年93歳だった。
私が「じいちゃん、ばあちゃん」と呼ぶことのできる、最後の人だった。


じいちゃんについて一番覚えていることは、私がガラケーを買うよりもずっと早くに、もう既にスマホデビューを果たしていたことだった。家に来て得意げに見せてくれたのを、よく覚えている。私がやっとガラケーを買った時も、新しくスマホにした時も、アンドロイドからiPhoneに変えた時にもやっぱり、「ちょっと見せて」と言って興味深そうにいじっていた。

それなのにじいちゃんは、「今から行くね」とかの連絡を一切せず、いつも突然家にやってきた。一言言ってくれたら美味しいものでも買っておくのに。
「連絡に使わないんならスマホ持ってる意味ないじゃん」なんて、その度に言っては笑っていた。

じいちゃんが機械に目覚めたきっかけは、囲碁だった。お父さんのお兄さん、つまりおじいちゃんにとっての長男に、「賢治、パソコンというのをやってみたい」と、そう言ったそうだ。おじさんが「パソコンで何するんだ」と聞くと、「囲碁をやりたい」と答えた。若くしてばあちゃんを亡くしたじいちゃんは、歳を重ねながら、一人の生活を自由気ままに過ごす多趣味なじーさんになった。

「パソコンには囲碁の相手になってくれる人がいるらしい」ということを本で知ると、「AI囲碁」なんていう仰々しいタイトルの本とパソコンを本当に買ってきて、囲碁に勤しんだ。

そんなじいちゃんの遺品を整理してみると、初めてパソコンを手にしたあの日から93歳になるまでの間、パソコンを実に4台も買い替えて、より最新の機器を使いこなせるまでになっていたようだった。

どこかの大会でとった賞状やら、段をとっていたらしい功績まで、本当に好きで打ち込んでいたことが分かった。

コロナ禍でなかなか長野に帰れない間に、大切な人が3人もいなくなった。もう一生、会うことのできない人になってしまった。本当に本当に、いなくなってしまったんだろうか。実感が、これっぽっちも沸いてこないんだ。

器用な手で、とってもおいしいパンを焼くじいちゃんを、ヨーグルトを「発酵させるところからやってるんだ」と実験のごとく見せてくれたじいちゃんを、健康に気を遣って万歩計の数字を更新していくじいちゃんを、大好きな日本酒を、ちびちびと飲むじいちゃんを、うちから帰る時、角を曲がるギリギリまで、何度も何度も振り返って手を振ってくれるじいちゃんを、思い出すたびに、また突然、家にやってきて、私の新しく買ったiPhone12なんかを興味深そうに触っている姿が、容易に想像できてしまうから辛い。

こんなんなら、東京になんて来るんじゃなかった。
残り少ないとわかっていた大切な人達との時間を、優先させるんだった。

一丁前に書いた、昔の自分の稚拙な文が、自分自身を一番苦しめた。不覚にもこれが、悲しみの最中「西先生が執筆される本に掲載されるので原稿の確認をお願いします」といった連絡をいただいて読み返すことになって、余計に自責の念に駆られた。


後悔しないようにだいじな人とたくさん話そうと、そう書いてあった。

それなのに私は、最後にじいちゃんとした会話を、覚えていない。

それくらい、満足にちゃんと、会うことができなかった。
もっとじいちゃんといろんなとこへ行くべきだった。
もっとたくさんのことを、教えて欲しかった。
パンの焼き方だって、聞いておくんだった。


本当に大好きなじいちゃんだった。


じいちゃん、もう会えないの?


じいちゃんの部屋で、その本棚を眺めていると、「パソコン入門」だの「囲碁のすべて」だのそんな本にまぎれ、こんなものが、しまわれていた。


1941年から1945年の信濃毎日新聞だ。

まさに太平洋戦争、じいちゃんが生きた、戦争という時代のしるしだった。


***



「ねぇ、ばばちゃんって、誰なの?」

子供ながらに、いつも不思議に思うことがあった。
母方のほうの祖父母の家に行くと、いつももう一人別のおばあちゃんがいて、その人のことをみんなは『ばばちゃん』と呼んだ。当時ピンピンしていたおばあちゃんに比べると、ばばちゃんはいつも自室のベッドで寝ていたから、私はその顔をよく知らなかった。なんなら、昔ながらの大きなお家で、夜になると真っ暗になる廊下の端の部屋にいるばばちゃんは、少し怖い存在ですらあった。私は、ばばちゃんというのは方言的なもので、『ひいおばあちゃん』にあたる人なのだと勝手に思い込んでいた。

祖父母の家でお風呂に入ると、外からカツーン、カツーンと薪割りの音が響き、ばあちゃんが「湯加減どうだ?」と聞いてくる。そんな家だった。
「ばあちゃん熱いよ、薪焚べすぎだよ」
そう風呂場から叫んでも、わっはっはと笑い声が響き「熱い風呂に入りぃー」というばあちゃんの声が返ってくるだけだった。なら湯加減など聞かんでほしいというような、そんな、古き良き大切な家だった。

去年、その母方のおじいちゃんがこの世を去り、後を追うようにしておばあちゃんも亡くなった。その時に、幼少期朧げに覚えていたばばちゃんの時と同じお寺で、葬儀が執り行われた。

四十九日が過ぎた。いよいよお墓へ入るという納骨の日、ばばちゃんのいるお墓とは別のお墓に、おじいちゃんとおばあちゃんが入ることを、不思議に思った。

「ねぇ、どうしてばばちゃんとは違うお墓に入るの?」

そこで私は初めて、ばばちゃんとは、血の繋がりのない人だったのだということを聞かされた。

じゃあなんで、あの家で一緒にくらしていたの?

ひいおじいちゃんの妻ではなかったの?

ばばちゃんは、誰だったの?


両親に、この家の血筋について聞くと、私の知らない物語がそこにあった。


ばばちゃんは、名前をテルと言った。

テルは、軍医だった夫のキューサクと共に、満州へ赴くことになった。当時、満州事変が勃発し、日本人の移民政策が活発になった頃だった。後に太平洋戦争が始まり、軍は満蒙開拓団の男子を根こそぎ動員するも戦争に敗れ、終戦を迎える。日本への帰国途中、キューサクは殺害され、たった1人になったテルは、命からがら日本へ戻った。

その頃、私のひいおじいちゃんはひいおばあちゃんを病気で亡くしており、独り身でいた。当時その部落一帯を従えていたひいおじいちゃんは、子どもを4人育てながら仕事をすることに困難を極めていた。女の人は家のことをするという歴史の中で妻を「家内」と呼ぶようになった所以でもあるように、ひいじいちゃんは「家のことをやってくれる人」を探した。そこで紹介を受け、出会ったのがばばちゃんだった。つまり、再婚の申し出だ。

ところがばばちゃんは、すぐに「はい」とは言わなかった。それは、キューサクを愛していたからだ。
「家に形としては嫁がせていただきます。ですが、姓だけは、キューサクのものを名乗らせてください。籍は入れない状態で、お嫁に来させて下さい。」ばばちゃんは、ひいおじいちゃんに、そういうお願いをしたらしい。今で言うところの夫婦別姓、内縁の妻という形だろう。それを、ひいじいちゃんは全部、受け入れて、妻として迎え入れた。

生涯、他人の家のために尽くし、私のひいおばあちゃんとしてその生涯に幕を閉じたテルは、望み通り、死後キューサクの名前が彫られたお墓で眠っている。

「それだからばばちゃんは、おじいちゃんとおばあちゃんのお墓とは、違うお墓なのよ。お母さんが知っているのは、そこまでね。」

そんな話を、教えてもらった。


***


じいちゃんばあちゃん達が生きた世界と、私が今生きている世界とでは、本当に同じ日本なのだろうかというくらい、違って見えた。


この時代を生き抜いた人たちから見る平成、令和は、どんな世界なのだろう。

もうこの世からいなくなってしまったおじいちゃんおばあちゃんが生きた昭和という時代は、どんな世界だったのだろう。

「私」が今ここにいるのは、どんな人たちの歴史があってのことなのだろう。

これから先、この世界の中の、日本という国で生きていくということは、どういうことなのだろう。

そう思ったら、学ばずにはいられなくなった。

ここのところずっと歴史の勉強をして、それと並行して、自分の祖先がどこへ繋がっていくのか家系図を書いてみたりもしていた。勿論ひいおじいちゃん以前などは全く分からずに行き詰まったけれど、そこには膨大な線が結ばれていることは明らかだった。

私が今ここに在るのはこの歴史の積み重ねなのだということを、ヒシヒシと感じた。

それと同時に、私には、紛れもなくじいちゃんとばあちゃんの血が流れているのだ思えて、身体がじんわり温かくなった気がした。


じいちゃんは最後、旅立つ時にお寺から「雲峰」という道号と「精瑞」という戒名をいただいた。
寛大で温かな人柄とその真面目さは、雲がかかるほど高い山の頂のようだということ、「瑞」というのは良いことが起こる兆しのこと、これから仏になるにあたり厳しいことがあった時にも、必ず良い兆しが舞い込むようにと、じいちゃんをよく知ってくれている和尚さんがつけてくれた。

和尚さんは、この戒名をつけた後、「はて、35年前に他界したばあちゃんの戒名はなんだったか」と確認したところ、たまたま偶然にも、同じ「瑞」という文字であったということを教えてくれた。

「驚きました、惹かれ合い引き寄せ合う、本当に、おふたりは夫婦ですね」と。

父が、隣で泣いているのがわかった。
父が25の時にこの世を去ったお母さんのことを、和尚さんがそんなふうに話してくれて、どれほど心が和らいだだろうと思う。

じいちゃん。

ずっと一人で見てきた景色を、そろそろばあちゃんと、二人で見たくなったの?

もう十分に平均寿命は全うし、「そろそろシナちゃん寂しがってはいまいか」と、そう思ったのかな。

再会までに長らく時間をかけたから、じいちゃんすっかり白髪頭になって、ばあちゃんに笑われないかねぇ。


「鶴は千年、亀は万年生きるからね」

そう言って、ハタチの時に私が買った帽子を、大切にいつでも被っていてくれた大好きなじいちゃん。



私は、じいちゃんの孫で、本当に幸せだったよ。



勉強し続けようと思う、これからも。

この世界に何が起こって今があるのかということ。

そして私も、これからを生きて、いつか、自分の子供ができたなら、たくさんのことを教えてあげたいと思う。


人は、沢山のものをこの世に残して、「自分」という個体が先に死を迎える。それはこの世の常であり、死なない人間など存在しない。

だからこそ、悲しみのその先で、残してもらった沢山のものを掬い上げこれからを生きる糧にして、未来に向かって、また歴史を積み重ねていくんだ。


世界はあまりにも広く、自分の持ち時間はあまりにも短い。



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