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memento mori

私が人生で1番最初に、「死ぬ」ということを現実として意識したのは、同じ県内に住む同い年くらいの男の子が、拘束型心筋症を患い、心臓移植のために渡米する募金活動を見た時でした。

小学校にあがるかあがらないか、それくらいの年頃だったある年の春、地元の花まつりで、その募金活動をしているのを見ました。

父から「ソフトクリームなんかを買ってきていいよ」と渡されていたお小遣いを、迷うことなくすべてその募金箱の中に入れました。

その時はまだ、移植とか、病気の名前とかは全然分からなくて、だけど、この子は心臓をとりかえなければ死んでしまうというのだ、ことだけはわかりました。幼いながらに直感が、ただごとではないな、と思ったのを覚えています。

その数年後、情報誌か何かで、その子はカリフォルニア州にあるUCLAメディカルセンターで心臓移植手術を受け、無事帰国していたことを知りました。


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日本は、臓器提供そのものが、今でも海外に比べて圧倒的に少ないです。それにあの頃はまだ、15歳未満は臓器提供が認められてもおらず、子供の場合、生きのびるには海外に行くしかありませんでした。

それから、小学校の図書館で、小児科の先生が書いた様々なノンフィクションを借りて読むようになりました。世の中にはたくさんの病気があって、何も悪いことをしていないのにその病気になってしまう人がいて、どれだけ手を尽くしても、死んでしまうこともあるのだということを知りました。

幼い頃、お母さんと一緒にお風呂に入っていると、ふいに「メメに指がちゃんと5本あって、目と耳と鼻と口があってよかった」と抱きしめられたことがありました。その時は、それが当たり前だとどこかで思っていた私には、なんでそんなこと言うのかよくわからなかったけれど、そんな当たり前が実は当たり前じゃなかったことを知って、お母さんも当時そんな気持ちだったのかなぁと思った記憶があります。


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そして16歳になり、自分が「15歳未満」じゃなくなった高1の夏、臓器移植法改正案が施行されました。本人の同意がなくても、家族の同意で臓器提供ができるようになったのです。それは、日本でも15歳未満の子どもからの臓器提供が行えるようになったということでした。

臓器を提供するかしないか。また、臓器を提供されるかされないか。これは、相当な覚悟と勇気を持っても、簡単に決められることではありません。それが愛する自分の我が子であった場合、尚更です。ただひとつだけ言えるのは、ドナー(提供する側)のご両親も、レシピエント(提供される側)のご両親も、命を繋ぐために、考えに考えて出した決断だからこそ、どちらの側の選択もその決断した勇気も尊重し、ただただ移植手術がうまくいくようにと願うことしかできません。それ以上も以下もないと、思っていました。


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看護師になることを決め、勉強に励んでいた高3の秋、iPS細胞を開発した山中伸弥先生が、ノーベル賞を受賞しました。

「すごいことが起こるかもしれない」そう思いました。
今まで、移植しか手がなかった医療が、劇的に変わるかもしれないと思ったからです。すごく興奮しました。


看護学校の面接で「気になったニュースについてプレゼンしなさい」と言われ、臓器移植とiPS細胞について40分間プレゼンしました。

「失礼ですが、ご親族に臓器移植された方がいらっしゃるのですか?」

プレゼン後、面接官にそう聞かれるほど、熱を込めていたのかもしれません。私の親族にも知り合いにも、有難いことに、大病を患っている人はいません。

だけど、今日知らない場所で知らない誰かが、臓器提供を待ちながら死んでいくのも事実だし、今日知らない場所で知らない誰かが、それまで私と同じように健康に生きていたのに急に脳死状態になり、臓器を提供する側になることがあるというのも事実です。

なぜかずっと、どこか引っかかるものがありました。


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19歳の夏休みにアメリカに行きました。いつかの募金活動で知ったあの子が心臓移植をした、UCLAメディカルセンターも見学しました。

ロサンゼルスの病院は、どこを訪れても「すごい…」しか言葉が出てきませんでした。小児センターでは、入院中の子どもたちのベッドから外を見ると、窓拭き係のおじさんがスパイダーマンの格好をして、宙にぶら下がりながら窓拭きをしています。それをみて子供たちは楽しそうにはしゃいでいます。白いだけの病室の雰囲気は、そこにはなく、まるで映画の世界に入り込んだようでした。

日本の病室を想像するとひとつの部屋をカーテンで区切られているような入院環境もそこにはありません。各部屋が個室になっていて、チャイムまでついています。患者さんが中から呼ぶと、部屋の入り口のランプが光ります。アメリカ全ての病院がそうでないことはわかっていますが、すごい違いだなと驚いたのは事実です。

高齢者施設では、みんな思い思いの場所で、好きなことをしていました。アロハシャツを着て楽器演奏をしているおじいさんや、ネイルを新調するおばあさん。まさに余生を楽しんでいるように感じました。

日本の病院で働く前に、アメリカの病院を見学したことが、のちに私の看護観に大きく影響を受けました。


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看護師国家試験合格後、地元の心臓手術に長けている病院に就職して、集中治療室の看護師になりました。あの時アメリカに渡って心臓手術を受けたあの子は、今頃どうしているのかな、元気にしているのかな。そうなふうに時々思いながら、心臓を始めとした、様々な場所の病気を抱えた人との日々を過ごしました。

様々な生と死にふれました。
大切な人の最期がどのような形であるべきか、ご家族と共に悩むこともありました。亡くなってしまった患者さんのご家族に、四十九日に来て欲しいと言われ、患者さんのお墓を訪れることもありました。

沢山の人と出会い、別れ、私は同年代の人達よりも少しだけ多く人の死と対峙する時間を過ごしてきました。


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集中治療分野に従事して4年。

集中治療の楽しさややりがいも見いだしてきた頃だったので、迷いや葛藤もかなりありましたが、自分の心に正直に行動してみたら、進むべき道は固まっていました。
次のキャリアビジョンのために、今は小学校の図書館でさんざん読んだ本の作者の先生がいる病院で働いています。

医療は日進月歩だということ。
急に劇的な変化は遂げないけれど、でも確実に新しい治療法が開発され、新薬が開発され、治らない病気が治る病気になり、さらに予防できる病気になっていきます。

その証拠に、当時、海を渡り、遠くアメリカに行かなければ治らなかったものが、日本でも治療ができるようになりしました。

人は万能ではない。
怪我をするし、病気にもなる。それに、いつかは必ず死んでしまう。だけど、梅崎春生が言ったように
「どのみち死なねばならぬなら、 私は、納得して死にたいのだ」そういうことなんだと思います。


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ここで使っているmeme(メメ)は、ペンネームです。

memento moriから借りました。
memento moriとは、ラテン語で「いつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。

いつかその日が来た時に、納得して死ねるように。
それが例え明日であろうとも、50年後であろうとも。

メメントモリ。

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