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坂本龍一さんのこと

亡くなった直後はうまく頭が整理できなくて何も書くことができなかったが、そろそろ書けるかなと思って書き始めている。少し時間が経ってしまったし、いろんな人がいろんなところで書いているから、私なんぞがこのタイミングで書く意義がどれほどあるかわからないが、自分自身の心の整理のためもあって書いてみる。坂本さん本人についてというより、私にとっての坂本さんについて。興味があったら読んでほしい。

坂本龍一さんは青春のヒーローの1人。多くの影響を受けた。直接会って話したのは1度しかないが。

真剣に聴き始めたのは高校時代。日本の音楽のなかでアメリカの友人たちがラウドネスとともに興味を持ってくれたのが坂本さんだった。文化を超えて愛されるってすごいと思ったし、誇らしかった。

卒業後の進路に漠然と迷っていた大学3年の頃のこと。世界政治が大きく動いている時代だった。将来は国連など国際組織で働きたいと思い大学に入り、社会的、国際的な組織やサークルを3つ4つ掛け持ってすべてで代表をやっていた。日々の忙しさに、アメリカで「おまえはアートをやれ」と多くの人に言われていたことなどすっかり忘れていた。

そんな折、たまたまのタイミングで坂本さんのFMラジオ番組を聴いた。まもなく公開されるベルトルッチ監督の映画「シェルタリング・スカイ」のサウンドトラックをこれから映画に先行して初公開するという。「ラスト・エンペラー」でアカデミー賞を取った監督と作曲家の次作だ。私は固唾を飲んで第1音を待った。

番組が終わる頃には、全身が痺れたようになっていて、「作曲をやらなくては」という強い思いにマインドとハートが支配されていた。

あのとき、タイミングがずれてラジオを聴き逃していたら、いまの自分はなかったかもしれないと思うことがある。ひきつづき国際組織で働くことを目指したか、他の同級生のように就職活動をしていたかもしれない。

それでも卒業後の選択には悩んだ。作曲をやりたいが周囲にそれを仕事にしている人もいなければ情報もなかった。夢だけはあるが、はたしてどうやったら実現できるのだろうか。

そのタイミングで、以下の動画にある渋谷オーチャードホールでのコンサートに行った。これらが録画されたとき、私もここにいた。その場ではきづかなかったが、ものすごいエネルギーで演奏されていたんだと、いま観ると驚く。このコンサートがきっかけで、いちかばちか作曲を志そうと思うようになった。その後いろんな人に恥を忍んで相談し、会いに行き、情報をもらい、細いツテをつたって作曲家に弟子入りした。

直接お会いしたとき、このような意味の質問をした。坂本さんは東京芸大で作曲を学び、クラシック、現代音楽のほうに進む選択肢もあったはずだが、現在のような活動に進むにあたって迷いはなかったか。

それにたいしこう答えてくれた。

「ポピュラリティの点で現代音楽には魅力を感じなかった。迷いはなかったですね。」

マイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンが曲をカバーする、アカデミーを賞を取る、オリンピックのオープニングをやる、オペラをつくる、クラシックからボサノヴァ、タンゴまであらゆるジャンルの音楽を書き、弾く。私がやりたい仕事を全部やっているように見えた。

思えば、そんな坂本さんの才能と仕事を尊敬するのと同時に、それと比較したときの自分の「不足感」にずっと悩み、苦しんできたように思う。今年亡って、そのことにあらためてきづいた。彼は彼、私は私なのに。作曲を志した頃に身につけたいと思っていた作曲の技術はすべて身につけたというのに。

坂本龍一さん以前に、もう1人憧れていた映画音楽の作曲家がいた。エンニオ・モリコーネだ。

憧れすぎて、日本の大学卒業後にイタリアに留学しようと思ったほどだった。いまならイタリアに行ったからってモリコーネのように作曲できないことはわかるが、当時はイタリアの音楽院で学べば彼のような曲が書けるんじゃないかと真剣に思っていた。

当時はそれくらい音楽に関して無知だった。我ながら笑ってしまう。でも、無知だったからそこに飛び込めたんだとも思っている。無知バンザイ。

知識や技術はなかったが、情熱はあった。遅すぎるスタートも、努力でなんとかなると思っていた。それは、人間には無限の可能性があると信じていたから。ワクワクする仕事は天職だと信じていたから。

そんなモリコーネの曲を坂本さんが弾いたのがこちら。坂本さんは生前、この曲を友人の葬儀などで弾くことがあると言っていた。追悼として、ここに置きたい。

RIP。


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