おかえり
動けない
アドベントカレンダーが始まってすぐのある日、朝起きて異変に気が付いた。なんか身体が動かない。全身痛い気がする。夏風邪かな、今日は寝よう。
しばらく経っても頭痛と全身の痛みが取れず、ただただ横になり何もできない日々を過ごした。
無力ながら、動画を見る気力もないので、色々なことに想いを馳せる。
あーちゃん(祖母のこと。以下あーちゃんと書いてます)も、こんな日々だったのかな。
はじまり
1年半以上前に書いたnote。
今振り返ると、突っ込みたいことばかりなんだけれど・・・
きっとこのときは、このときのわたしなりの自信があったのだろうな。
このときの、「じぶん」がいない人生だということに気が付いた、ことからはじまったようにおもう。
しかし繰り返す繰り返す
さぁて、じぶんの人生生きるぞ!と意気込み、個人事業主としていきいきとスタートを切ったわたし。
しかし。読んでくださった方はご存じのとおり、一年前の夏のアドベント時には、綺麗にじぶんを見失っていた。
ゴリゴリの資本主義で生きてきた染み込んだOSが大活躍していたのだ。
資本主義の中で生き残るために、わたしのなかの優秀な部隊が抜群のチームワークで過剰適応を推し進めた。
そのおかげで、収入の不安はなくなっていた。心身の声を犠牲にして。
これに気づいて、純粋な声を聞いたことで本企画のアドベントカレンダーが誕生した。
そしてこの頃から、「ひととのつながり」を据えた世界になっていった。もう今度こそ大丈夫だと思っていた。
・・・半年後の冬のアドベント。
わたしはまた、拗らせていた。というか、落ち込み度的には悪化していた。なんでやねん。
というのも、「過剰適応」でつないでいた現実世界が、私が過剰適応していることに気づいたことによって違和感となり、ゆるやかに壊れていっていたからだ。
観測すると現実化する(量子力学的視点)現象が超スピードで家族との関係性に表れてきたのだ。
わたしは、いつになったら真にわたしの人生を歩めるのだろうか。
っていうか。
ストレングスファインダーやMBTI、ホロスコープなどなど色々あるけれど。
後発的に形成されたものや、その星のもと備わっているものなど、わたしの特徴といえるものは、確かにいくつもある。
ただ、ひとって常に変化している。
今日のわたしが、明日のわたしとも限らない。
関係性のなかに、わたしらしさがある。
という感覚はすき。
もしひとりぼっちの世界なら、わたしらしさもなにもなく、ただわたしなのである。
じぶんってなんなんだろうね?
気づいてしまった
さて、時を2023年5月に戻そう。
この頃のわたしは、いろいろな方から「りみさん何人いるの?」と聞かれることが多くなった。
コミュニティのオフライン会をほぼ週1のペースでやりながら、オンライン会も開いたり。
何なら新しい仕事もスタートしていて、既存のお仕事もめちゃくちゃミーティングが増えた。それがやれちゃうエネルギー量だった。好きでやっていることが多いから。
しかも謎に英会話とピラティスもはじめていて、なんでやれていたのか、今のわたしには分からない。
だが、ここで転機が訪れる。
怒涛のオフライン会が終わり、ご縁でつながった方たちへ会いに大分の離島へ行った。
滞在したのは3日ほどだけれど、ほぼひとがいない場所で、ひとりぼっちの時間が急に増えた。
ごはんを仕込んだり、本を読んだり、昼寝をしたり。海辺でただ座ったり、お魚を探して眺め、ときめいたシーグラスを拾ってあそぶ。
まるでひとりぼっちの世界のなかで、なんの制約もなく過ごしたたった1時間程度のじかん。
ふと、
あれ。わたし、なんでたった1時間さえも、じぶんのために真に自由な、安心する時間をつくってあげられないんだろう。
とおもってしまった。
ほろほろと、涙が溢れた。
もちろん、これまでも休みをとったり、ひとり時間もつくっていた。
でも、だれかのため、さえも一瞬も考えずに、目の前のこの世界に、わたしがいるという現実だけを抱きしめるなんていう時間は取れていなかったのだ。
ここからは、急変した。
あらゆる連絡や通知、SNSをはじめ、ひととのつながりさえも、ノイズに聴こえて・視えてしまいこれまでのとおりのわたしでいられなくなった。
帰宅してすぐに、1番重かったしごとのおやすみをいただくことになった。
必要なときにつながる。
大きなしごとを休みつつ、とはいえ他の仕事もいくつかあるのでワンテンポ遅く歩けるようになった6月。
とある講座で、問は忘れてしまったけれど話すタイミングがあり。
話そうとおもっていなかったけれど、不安定さを隠していたわたしの、もう隠しきれない部分がぽろぽろとこぼれてきた。
わたしにとってのコンフォートゾーンは新たなことに挑戦し続けること、に自動設定されていた。こころはパニックゾーンなのに。
どうしてわたしはこの自動設定をつくってしまったのだろう。
このタイミングで、昨年の冬のアドベントで書いたことを思い出した。
そっか。
わたし、”できないこと”がめちゃくちゃ怖かったんだ。わたしにとって、開けたくない箱を思い出させ、死を想起させることだから。
これまで開けたくなかった想い出
冬のアドベントでは書けなかった、残っていて欲しくない記憶を書こうと思う。もう17年ほど経つのに、今でも鮮明に記憶が残っている。
忘れさせてくれやしなかった、わたし。
これまで、誰にも言えなかった。
夫も、母も、父も、妹も、弟も、祖父も、誰も知らない。
わたしにとって、第二の母であり、親友だったあーちゃん(祖母)との想い出。
それを、このnoteを通しておいておくの、なかなか勇気がいるのだけれど。
だいすきなショッピング
私はあーちゃんと、よく一緒に買い物に行っていた。
パルコの福袋に一緒に並んでくれたのも、あーちゃん。おしゃれが大好きで、好き、に全力だった。
そんなあーちゃんはALSが発病して遠出は難しくなり。やっとの思いで行けたところが、近くのしまむら。でも、病が進行して筋力が弱っていたあーちゃんは満足に歩けなくなってきていて。
しまむらの駐車場で転んで起きられなくて。
けがが怖いから、もう車で待っててと、みんなで言ってしまった。
そのときの顔が、どうしても、忘れられない。
ごめんね。ごめん。ごめん。
手を取っていっしょに行けばよかった。
とことん柔らかくした鶏だんご
あーちゃんが入院するぎりぎり前、親戚一同で集まった。
もう器官の筋肉が弱っていたあーちゃんを気遣って、母はとっても柔らかい鶏だんごをつくった。
それが、たしか最後の、あーちゃんと一緒に食事をとった時間になった。どう接していいか分からないわたしは、とにかくあーちゃんの隣でフォローをした。
あーちゃんは、すごく喜んでくれたようで、母にも話していたけれど、わたしはなぜか罪悪感があった。今のあーちゃんに向き合えないからやっていたことだったから。
発病前は毎週、お休みには喫茶店にいっしょにいってモーニングを食べた。
はじめて、コース料理を経験したのも、あーちゃんと。また大きくなったらいろんなところ行こうねと。
でも病気は進行して口から食べられなくなり、生きるための胃瘻となった。
また、一緒に美味しいごはんをたべたいよ。
受験勉強を理由に逃げる
わたしは、どうしたらいいか分からなかった。
どんどん、動けなくなるあーちゃんを目の当たりにすることが耐えられなかった。そして、目をそらしてしまった。
悔しかった、切なかった、悲しかった。
まだ、あーちゃんと話せたのに、わたしは逃げた。
そのあいだに、あーちゃんは話すこともできなくなっていった。
傷つけない範囲で受験勉強が忙しいといい、一緒にいる時間を短くした。
会うたびにできないことが増え、死に近づいていくあーちゃんと一緒にいられなくて。ごめん。めちゃくちゃ後悔している。
もっともっと話したかった。なにを思っているのか、聴きたかった。
許せない過去のわたし
体育の授業中、危篤の連絡が入って早退した。
病院について、まだあーちゃんは息をしていてくれた。
でもね。ごめん。わたしね。
みんなが泣いている中、心臓が止まる瞬間、悲しさよりも、少しほっとした私がいたの。
そこにいたかったけれど、いられなかった。記憶は鮮明に残っているけれど、そこにいるわたしを空から見ているもうひとりの私の記憶しかない。
やっと、痛みや辛さから解放されるのかと思うと、悲しみよりやっと。と思ってしまった。体を揺らして悲しみを演じながら、悲しめなかった。
たぶん、そうでもしないと、耐えられなかったのだと、今だからやっと思える。
これまでは、なんて非情なのだろう、なぜ、悲しめなかったのだろうとずっと自分を非難していた。なんで、なんで、なんでわたしは。大切なひとを見送れないのだと。
十分に悲しんで、泣いて、感じることができるように、17年経ってやっと、やっとなった。あのとき流せなかった涙を、今流せる。
ちいさく死と生を繰り返す日々
冒頭に戻ろう。
これに気がついたわたしは、7月早々になにもできないわたしになっていた。本当に何の気力もなかった。
よくなったかとおもえば、2週間ほど嗅覚障害でまったく匂いを感じられなくなり、生きがいである食のたのしみを失った。
どんどん元気がなくなってゆく。
今はアレルギー性結膜炎をこじらせていて、視界がおわっている。
しかも医者にかかっているのになかなか治らない。
そのため長時間、液晶画面を観ることもできない。
こんな中で、これまでやったことのないワークショップの開催(ワークショップ自体も実は初めて、実際やるワーク内容も初)が迫っていた。
こんな心身の状態で、できない。
ずっと、できない、を握りながらぎりぎりまで辞退できないか悩んでいた。
そのとき、この動画がどなたかのシェアかたまたまか流れてきて、その日どれだけ調子が悪くても、その日わたしができる最大限のことをやろうと決めて、開催した。
動かしてくれた動画
結果、ずっと恐れていた「できないじぶん」なんて実はいなくて。
これまで培ってきた自分自身に、いてくれたみんなに、場に支えられて、見たかった光景が気が付けば目の前に広がっていた。
講師からのフィードバックで、このイチローさんのことばを引用してくれたときは、めちゃくちゃ驚いた。
わたしの中で、できない、に対する見方が変わった日だった。
今もまだ執拗に、できないことを突きつけられる日々と共にいる。
でも、ふしぎなくらいおだやかだ。
この世界にわたしがまだいるという事実と、目には見えないけれど、たくさんのひとや生き物とつながっているという感覚が、日々に潤いを与えてくれる。
みんなつながっていて、それでいて、それぞれ宿命がある
すとちゃんも載せていたことばたち。実はわたしも前に出会っていた。
自分が生きていることが、あーちゃんを感じられる媒体なのだと。
これって、家族だけじゃないと思う。
見た目には見えないけれど、わたしたちは日々、すこしづつ、出会うひとやいのちから形見をもらっている。
わたしたちが生きていることが、誰かが生きていた証。
当り前なんだけれど、想像しえない深さまでずっとずっと、どうしたってわたしたちはつながっている。
ー沖縄でふらっと行った展示で命のつながりを知った。
ひとだけでなく、動物や植物、昆虫、微生物さえもわたしたちはつながっている。生きよう、生きようとする生命力がこの世界をつくっている。
このつながりの中で、人間として個として生きている意味がきっとある。
わたしは、わたしたちが、わたしたちとして生まれてきたことこそが、生きている意味であり宿命なのだとおもう。
なにをするか、どんな選択をするか、どう生きるかも確かに大切。
まぁでもそれすらも包括して、わたしたちであること、がすべてのような気もしている。
だから、この先何が起ころうとも、どんな変化があろうとも、
「おかえり」と愛をもって、だれに対してもいられるわたしでいたい。
わたしにとっては、どんなわたしも、あなたも、「おかえり」なの。
謝辞・あとがき
今回も、この企画にご参加いただいたみなさま、企画してくれたまー、見てくれた、支えてくれたみなさま。
いつも本当にありがとうございます。
私は過去に、死を考えるワークショップに参加したことがあり。
最後まで手放せなかったのは「愛すること」でした。
だから、これからも存分にいのちある限り伝えてゆきたいと思います。
愛しています、だとちょっとニュアンスどうかなとも思うので、最大の敬意と愛を込めて。
生まれてきてくれて、この同じ時代にいのちを共にしてくれて、本当にありがとうございます。
わたしは、今日に至るまで、数々の痛みと向き合い、気づき、noteに記し、また痛みに向き合い。ずっとずっと、これを繰り返してきました。
これは、ひとりでできたものではなく、マイコーチとのじかんがあったからこそ。
宮本さん、本当にありがとうございました。
敬意を込めて、そんなわたしに、マイコーチがかけてくれたことばで締めたいと思います。(一部抜粋)
メンタルモデルなどトラウマケアしすぎて、それが通常稼働になっており。
これを伝えてくれるコーチって、ほんとうに凄いよね・・・
なので、これからは、
おいしいごはんを食べて、おいしいお酒を呑む
くらいの目標でいきたいと思います。
また、乾杯しましょう。
おまけ
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