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捕虜収容所からの帰還兵

第二次世界大戦のドイツ兵捕虜について調べているのですが、私の義母の父フーゴが書いた戦争捕虜体験記は胸に迫るものがあります。

第二次世界大戦中、捕虜になったドイツ兵は約1100万人、そのうちソ連領の収容所には推定320万から360万人が収容されたと言われています。そこでの生活は陰惨を極め、100万人以上が飢え、寒さ、病気、拷問、射殺等で亡くなっています。

捕虜同士の連帯感はなく、とにかく飢えを凌ぐことで精一杯、配給されたパンの大きさで殴り合うことも日常茶飯事でした。食糧の配給量は労働の重さによって決められていたため食べるためにきつい仕事を選ぶのですが、栄養不足の体は重労働に耐えきれず、多くの捕虜が亡くなりました。

連合国は1948年末までにすべての捕虜を解放することで合意していたのにもかかわらず、ソ連はそれに反して1949年には443,165人がまだ捕虜として残っていました。西側連合国側からの再三の催促にも従わず、結局、当時の西ドイツ首相コンラート・アデナウナーの尽力により、最後の捕虜1万人が帰郷出来たのは1956年のことでした。

ソ連軍の捕虜に対する残虐行為については多くの記録がありますのでここでは省きます。ひとつ付け加えておくならば、独ソ戦でナチスドイツ軍の捕虜となったソ連兵に対する扱いはそれ以上に残虐であったため、ソ連軍は復讐心からドイツ兵捕虜に容赦しなかったと言われています。

さて、私の義母の父親フーゴは終戦直前のベルリン市街戦で捕虜となり、ポーランド領ソ連軍管轄の捕虜収容所に収容されました。仲間の投げた手榴弾が木に当たってこちらに跳ね返り爆発、頭蓋骨損傷という重傷を負っていたため、幸か不幸か「労働能力なし」とみなされて、半年もせずに帰郷が許されました。射殺されずに生き延びることが出来たのは奇跡かもしれません。

フーゴが収容所での生活を思い出して書き綴った手記は非常に興味深いものです。

収容所でフーゴは20人ほどのグループに所属していたのですが、その中になんと13歳の少年がいたというのですから驚きます。戦争末期は前線に送り込まれたヒトラーユーゲントも多く、運良く西側連合国側の捕虜に取られれば終戦と共に解放されたのですが、ソ連軍は子供であってもすぐには解放しませんでした。

フーゴの手記には、そのグループの男たちと少年フリッツとの微笑ましい交流が綴られています。

「労働場から子猫を拾ってきてフリッツを喜ばせ、パンを分け与え、外に呼んで美しい夕焼けを見せ、故郷の歌を教え、一緒に踊り、物語を聞かせた。私たちは収容所生活がフリッツにとって少しでも楽しくなるよう心を砕いた」。

そしてこうも書かれていました。

「フリッツを守ること、喜ばせることは私たちにとって生きがいであった。もう何年も会っていない我が子を思い出し、フリッツを抱き締めて涙を流す者もあった。地獄にいながらも、私たちは『誰かのために生きる』ことで生きる希望を見出したのである」。

フーゴが半年で退所する際、フリッツも一緒に帰郷することが許されました。

フーゴたちが汽車でベルリンの駅に到着すると、ホームは迎えに来た家族でごった返していました。多くの女性がフーゴに写真を見せて「息子を知りませんか?」「これは夫なんです。一緒ではなかったですか?」と立ちはだかるので、なかなか前に進めません。そのうちフリッツの母親がフリッツを見つけ、泣き叫びながら息子を抱き締めるのを見届けて、フーゴは安心して駅を出たそうです。

空襲と市街戦で破壊されたベルリンの町は瓦礫の山です。何十人もの女性たちが一列に並んでレンガを手渡ししながら瓦礫を片付け、傷みの少ないレンガは磨かれて、再利用されます。彼女たちは後に「瓦礫女」と呼ばれ、ベルリンの町の再建に貢献したのです。

捕虜収容所から故郷に戻った息子と再会を果たした母、妹 。(Lebendiges Museum Online からお借りしました)

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