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【小説】神隠しの庭で、珈琲を 第一話#創作大賞2024

本作は、note創作大賞2024へ応募予定の作品となります。連作短編です。あらすじは全記事を投稿し終えてから記載します。

 闇が最も深くなるのは、夜が明けるほんの少し前だ。瀬名朝来せなあさきは、深い眠りの中で、夢を見ていた。真冬の雪嵐の夢だ。風が、ごうごうと鳴っている。分厚いダウンジャケットと、スノーブーツ、手袋を身に着けても、指先と足先が痛いほどに冷たい。両腕を交差して、顔を殴りつける風をよけながら、吹き溜まった雪を踏みしめ、吹雪の中をゆっくりと進んでいく。子供であれば吹き飛ばされそうな強さの風が、体全体に刺さるようだ。朝来の腰まである黒髪が、吹き付ける風で巻き上げられる。 
 朝来の二、三歩先を、一匹の狐が歩いてゆく。雪と見紛うほどに白くて、ふかふかとした上等な毛並みの狐だ。尾は三本ある。猛烈な横殴りの風に吹かれているはずだが、三本の尾は、風などないかのように、悠々と上を向いている。狐は、時々立ち止まると、朝来を振り返った。金色に光る二つの瞳が、ついて来い、と訴える。朝来は頷いて、嵐の中を進んでいく。
 朝来は、大きな荷物を背負っている。荷物が何だったのか、夢の中では思い出せない。思い出せないのは、大きな荷物のことばかりではない。自分がなぜ雪嵐の中にいるのか、一体自分は何者で、今までどこでどうやって生きてきたのかさえ、朝来にはわからない。
 記憶が閉ざされたまま、朝来は雪嵐の中を進む。 
 どれくらい歩いたのだろう。風が止み、視界が開けた。ゆっくりと目を開いて、あたりを見回した。
 春の野原が、眼前に広がっていた。白狐が、座ったまま首だけを朝来の方へ回して、振り向いて見せた。狐は、微笑んでいるようにも見える。
 野原の中央には、石造りの壁の古い洋館と、桜の老木が見える。洋館の壁は、深い緑の蔦に覆われていて、玄関の木の扉の周りの壁には、白と淡い赤色のつる薔薇が這っている。
 扉が開き、誰かがこちらへ歩いてきた。
『ようこそ、常庭へ!』 

 朝来ははっと目を覚ました。また、ここへ初めて来たときの夢を見ていた。何度同じ夢を見たことだろう。目が覚めたのは、いつもの、居心地の良い屋根裏部屋だった。起き上がり、足元の方向を見ると、洗いざらしの生成りのシーツで覆われたベッドと壁の間に、チェロケースが立てかけられている。そうだ。夢の中で背負っていたあの大きな荷物は、チェロだったのだと、腑に落ちるこの感覚は、もう何度目のことだろう。
 見上げると、天窓から朝日が差し込んでくる。今朝は、雲一つない快晴だ。
 階下から、包丁とまな板が奏でる音が聞こえてくる。毎朝のこのとんとんという音は、いつも朝来の全てを安心させる。ぐうっと伸びをして、ベッドから降りると、紺色のチェックのパジャマを脱ぎ、白い木綿のシャツと、麻素材の紺色のテーパードパンツに着替える。化粧はしない。鏡を見ながら、長い黒髪を襟足で一本に結んだ。
 階段を下りていくと、朝食の匂いに誘われて、お腹が鳴った。台所に目を遣ると、いつものように、親愛なる老婦人の背中が見える。
「フサヱさん、おはようございます。いい匂いですね!」
 朝来のとびきりの笑顔は、野の花が微笑みながら咲くようで、名前のとおり、朝によく似合う。
「おはよう、朝来ちゃん」
 フサヱさんは、皺だらけの顔で満面の笑みを浮かべた。顎の辺りで切りそろえられた、フサヱさんの明るいグレーの髪の毛が、ふわりと揺れた。丸眼鏡の奥の灰色の瞳が、優しく朝来を見つめる。フサヱさんが自らミシンを踏んで手作りした、白地に赤い小花柄の、Aラインのワンピースには、今日もぱりっとアイロンがかかっている。
「手伝います」
 目玉焼きを焼くフサヱさんの横に立ち、山形食パンに包丁を入れる。目玉焼きの隣のコンロにフライパンを置き、トーストの両面を軽く焼くと、パンの香ばしい香りが立った。フサヱさんは、二、三日に一度、屋敷の裏口にある窯でパンを焼く。たしか、パンの発酵に使う酵母は、脈々と受け継がれている、フサヱさん秘伝の天然酵母だったっけ。
 厚切りのトーストを白い大皿に置くと、その皿の余白に、フサヱさんが焼き立てのベーコンと目玉焼き、それから菜の花のバター炒めを盛り付けていく。お皿に乗っても、目玉焼きの白身ははまだジリジリと爆ぜている。少し焦げた白身の縁も美味しそうだ。バターの香りがふわっと立つ。幸せの香りに包まれた二人は、顔を見合わせて微笑んだ。
「朝来ちゃん、せっかくだから、外で食べない? 日光を浴びなくちゃ。すごくいい天気なんだもの」
「賛成です」
 玄関の木の扉を開けると、春の匂いに心が躍った。視界に飛び込んできたのは、屋敷の庭にある、桜の老木だった。夢に出て来たのはこの木だ。こぼれんばかりに花を咲かせた枝が、春の風にそよいでいる。桜の根元には、杉の一枚板のテーブルと、よく磨かれた、暗褐色の木の椅子が四脚ある。桜の木に見惚れていると、風に乗って、花びらがひとひら、艶やかに光る真っ白なお皿の端に乗った。朝来は微笑んで、お皿をテーブルに並べる。
 ここは、現世から隔絶された、常世とこよの庭、「常庭とこにわ」だ。常庭は、深い森に三百六十度囲まれた、草原の中にある。
 いつのころからだろう。朝来は、現世を離れ、ここ常庭で暮らしている。どうやって常世に辿り着いたのか、現世で何があったのかを思い出そうとしても、記憶はいつも、深い霧の中から出てきてはくれない。
 視線を地面に移すと、エンゴサクやニリンソウ、カタクリ、色とりどりのスミレ、エンレイソウなどの、春に咲く可憐な山野草が花芽をほころばせている。
 この常世では、永遠に春が続く。桜が枯れることはない。朝来は、空中を舞う桜の花びらに手を伸ばした。その手が陽に透けて、赤く光る。
雪夏せつかはどこに?」
「あの子、今日は朝早くに出かけて行ったわ」
「雪夏って、ほんとミステリアスだなあ」
 常庭の住人は、朝来とフサヱさん、そして今この場には居ない、雪夏と呼ばれている少年の三人だ。雪夏は、謎に満ちた存在で、捉えどころがない。
「いただきます」
 朝来も、フサヱさんも、食事の前には目を閉じて手を合わせる。
 あつあつのうちに、春風と共に朝食をいただこう。
「うーん! 美味しい!」
 塩と胡椒を振った目玉焼きを、厚切りのトーストに乗せて一口齧ると、黄身がとろりと広がって、朝来も、とろけるような笑顔になった。フサヱさんの目玉焼きは、世界一美味しい。葉の花のバター炒めも、少しだけほろ苦くて、歯ごたえもあり、やはり美味しい。
「朝来ちゃんは、何でも美味しい美味しいって言ってくれるから、作り甲斐があるわね」
 フサヱさんは、上品に、ナイフとフォークで目玉焼きと菜の花を交互に口に運んでいる。
 朝食を食べ終えると、次は掃除と洗濯の時間だ。
「朝来ちゃん、リネン類を持ってきてくれる?」
「はい、すぐに!」
 フサヱさんは、リネン類の洗濯が大好きだ。常世には電気がないから、朝来とフサヱさんの二人がかりで、シーツやベッドカバーを、盥の中で石鹸水に浸して踏んで洗う。運動になるし、気持ちがいい。何より、洗濯物が清潔になっていくことが嬉しい。
 すすぎが終わると、二人で洗濯物を絞って、庭の物干し竿に干す。風にはためく沢山の生成りの布を眺めるのが、毎日の楽しみだとフサヱさんは言う。
 昼食を食べ終わり、太陽が午後三時の角度に位置する頃、フサヱさんはスコーンを焼いていた。雪夏が今朝早く迎えに行った、「お客様」がもうじき常庭に来るのだ。どうしてフサヱさんには、お客様が来る時間が分かるのだろうと、朝来はいつも不思議に思う。
「朝来ちゃん、湧き水を汲んできてくれる?」
 フサヱさんが微笑んで、水瓶を差し出した。皺が刻まれた左手の甲には、青く血管が透けていて、人差し指には、金色の指輪が光っている。
 朝来は笑顔で頷いて、水瓶を受けとり、屋敷の裏の泉へと向かった。澄んだ水を、手で掬って口に含む。甘く、まろやかな水が、体に沁みわたっていく。水瓶を満たして屋敷に戻ると、フサヱさんに水瓶を手渡した。 
 フサヱさんは、水瓶を抱えたまま、窓の外を見つめた。大きなガラス窓からは、常庭を囲む深い森が一望できる。
「そろそろ、風が吹くかしら」
 フサヱさんがそう言い終わると、ごう、と風が吹いて、木々の枝を揺らし、森が鳴った。
 朝来は、森を見つめ、暫し風の音を聞いた。フサヱさんが木の扉を開ける。吹き込む風で、フサヱさんの髪の毛が、ふわりと揺れた。
「お客様ね」
 フサヱさんは、朝来の右肩に左手を置くと、灰色の目を細めて森を見つめた。

森は、開かれた。

常庭にお客様がやって来る。今日はどんなお客様だろう。

<第二話へつづく>





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