「I'm give up working holiday」
1
治験のアルバイトはとても割の良いアルバイトであった。
好きな小説をずっと読むことができたし、たまに看護師がベッドの前に現れて注射されるのを我慢すればよかった。
ただ一度治験のアルバイトをすると半年程は治験のアルバイトをすることができずその間収入がなくなることがネックだった。
ただ治験のアルバイトで15万円程稼いだことに満足していた。
2
私は親友呼ぶには恥ずかしく、友達と呼ぶには寂しい、柳田とルームシェアをすることにした。
柳田は私より4つ年上だったけど私はタメ口を使っていたし、失礼なことばかりしていた。
それでも彼は許してくれてた。
ルームシェアと言っても私の一人暮らしの部屋に居候する形だ。
二人で良くふざけて遊んでいた。
彼は私のワーキングホリデーに行くためにアルバイトに精を出しているのに応援していたし、彼にも夢がありお笑い芸人として売れるために努力していた。
彼は人の気持ちを理解できる優しい人だった。
私はその優しさに甘えいた。
また彼も優しい人特有の甘さがあり、仕事やお金、就職に関しては非常に無知であった。
ただ彼は最高だった。
私は一人暮らしをずっと続けてきたので一緒に誰かと生活するのが新鮮だった。
出かけるときに
「行ってきます」
と誰もが当たり前に使っている言葉を話したときは照れてしまった。
3
居酒屋とパン屋を辞めてしまった私は友達の先輩に仕事を紹介してもらった。
一番最初の仕事は車のタイヤの交換だった。
この先輩は安西さんというのだが、私は安西さんに良くも悪くもお世話になった。
安西さんは仕事が効率的で人付き合いも上手だった。
安西さんもスタッフとして現場に入っているのにも関わらず、現場の社員から非常に信頼されていた。
私から見た彼は素直で自信に満ち溢れていた。
もちろん表向きだけかもしれない。
当時、安西さんは30歳くらいだったと記憶している。
安西さんは前職の仕事で課長まで出世したり、海外で働いていたり、当時30歳で起業して仕事をしていてあまりにも差を感じていた。
安西さんがお金を稼ぐ理由はゆったりとした時間が欲しいとのことらしい。
安西さんが当時起業した会社に私は誘われるのだが、結局保留にしてしまった。
4
次に安西さんに紹介してもらった現場は大手企業の面接の就職案内の仕事だった。
東京という街はは恐ろしく高いビルが建ち並んでいる。
やることはシンプルだった。就職面接にきた就活生を指定の場所に案内するだけの仕事だ。
ただ就活生にとっては人生がかかっているので私はミスをしないように努めた。
この現場でも安西さんにお本当に世話になった。
安西さんは私に対して
「顔が怖すぎる。大学生に普通そんなふうに接しないよ」
と注意された。
私ごとで恐縮だが、私は大学には進学しておらずキャンパスライフやリクルートスーツを着た就職活動などはしかことがない。
私は真面目に仕事をしているつもりなのだけだったのだが、私には何がダメなのか全くわからなかった。
私が冗談で
「自分が大学卒業していないのがコンプレックスなんですかね」
と話すと安西さんは驚いた表情をというか図星というか言ってはいけないことを自分で言ってしまったというような表情をしていた。
きっと安西さんは私が大学を卒業していないから、大学生が大手企業に入社するのを嫉妬していると思っていたのだと思う。
そう思われるのは仕方ないよな。
そんな気持ちないって思ってたけど、あったのかもしれないし。
また自分が大学生に大手企業の社員と勘違いされると心地良かったのも覚えている。
やはり大学生は就職しようとする会社に悪い印象を与えたくないのかとても下手に接してきた。
それと同時に自分がこの会社の社員ではなく自分はただのイベントスタッフとしてのバイトなんだと思い辛くもなった。
5
別日に人数が少なく安西さんに誰か友達がいないかと誘われた。
私は暇そうだった柳田を誘い一緒に仕事をした。
柳田と一緒に仕事をしたのは最高だった。
柳田はこれから就職案内のするのにも関わらず集合場所にジーンズでやってきた。
安西さんはブチギレていた。
私は急いで近くのお店でそれっぽいズボンを買ってきた。
それだけではなく、スタッフ用のお弁当が余ったら真っ先に僕が全部食べますと言い放ち、食べれない分は持って帰りますとはしゃいでいた。
私も安西さんに必要なものの買い出しを頼まれて買いに行くと、いつついた皮かあないのだが、背中に鳥のフンがついていた。
安西さんには呆れられていた。
私も柳田も似たもの同士だった。
もっと書きたいこともあるのだけど、私と柳田の名誉のためにもこのくらいにしておく。
最悪の環境でも二人とも家に帰ると笑っていた。それが楽しかった。
やっぱり柳田は最高だった。
6
次の現場は車と簡単な送迎だった。
演者を目的地まで連れて行き現場で機材を準備する。
安西さんは人数を用意しなくてはならず、私に声をかけざるおえなかった。
私は車の運転が大の苦手だったのでもちろん断った。
ただ安西さんは中々引き下がらないし、ディレクターと呼ばられるボジションでの仕事は今後重要な経験になると言われて仕方なく引き受けてしまった。
しかしこの仕事をしたことを私は非常に後悔している。
実際、私はこの仕事で2回ぶつけている。
報告などはもちろんしたし、保険の対応で事なきを得たけど、事務局の人から執拗に責められた。
このまま続けたら私は重大なミスをして取り返しのつかないことになりそうだった。
安西さんに私は
「僕にはちょっと厳しいです。これ以上仕事入れないでください」
と伝えると
「逃げるな。最後までやり遂げろ」
と言われてしまった。
私は期間内の約2ヶ月間、なんとか仕事をやり遂げた。
しかしそれ以降安西さんからの仕事を引き受けることはやめた。
その後飲みにかないのはもちろん、相手が人手不足で困っていても、私は既に予定があります、と仕事を断り続けた。
7
私はこの頃は私は月に4日ほどしか休まず、ざっと働いていた。
月に26万5000円程稼ぐことができたのだが、年金や住民税、月々の支払いでお金が消えていくのが寂しかった。
それでもなんとか月に5万から10万円くらいは貯金するようにしていた。
明らかに無理をしていたのだが、私は海外に行けば全て今の悩みが解決すると現実逃避していたのかもしれない。
ワーキングホリデーに行きたいと思ってから約半年程経過して50万ほど貯金していた。
当時の私は働いてばかりいたので、つい口癖で
「えげつい資本主義だな〜」
と、一人になるといつも愚痴をこぼしていた。
8
柳田と過ごす日々はとても楽しかった。
しかし一緒に住み始めて2月間程たった頃から柳田が少しずつ元気がなくなっているのが私は手に取るようにわかった。
柳田にも人生のプランがあり、そろそろ次の人生に向けて何か取り組んでいるらしかった。
それは、夢を諦めることや結婚、就職など色々なことを考えていたらしかった。
そして柳田から
「今月でこの家出るわ」
と言われてしまった。
私はこの日16時間働いて体は疲れていて早く寝たいはずだったのに頭が冴えきってしまい全く寝ることができなかった。
その状態で次の日の現場に出かけたが冷静ではいられなかった。
ただ柳田自身も悩み苦しんで出した答えだったし私は尊重しなくてはいけなかった。
むしろ別れを切り出す側のほうが勇気がいる。
ルームシェアした期間は3ヶ月程だったけど最高に楽しかった。
私はこの頃ディズニーの音楽をよく聴いていたな。
9
安西さんからは逃げ出してしまい、柳田には逃げられてしまい、私はいよいよ一人になった。
それでも人生から逃げることはできないし、まだ日本から逃げきれていなかった。
そんなとき私は近くの電気量販店でパソコンを見つけてしまった。
Appleの作った製品は本当に輝いて見えた。
私は25歳までまともにパソコンを使ったことがなかったので無知すぎた。
スペックや実際にできること、Windows製品とMicrosoft製品との互換性など全く知らなかったし、日本の一般的な多くの企業がWindowsを採用していることや、Apple製品は独自のアプリケーションに特化しているなんて全く知らなかった。
ただ、そのフォルムがカッコ良かった。
一目惚れだった。
この機会を買えば新しい世界が待っている気がしたのだ。
そのディスプレイの向こうには自分が知らない世界が待っている。
インターネットが私をどこにでも連れてってくれる気がしたのだ。
節約していたから無駄なお金なんて全く使わなかったけど、これだけは買う必要があると思った。
そしてこの機械を持ってワーキングホリデーに行くべきだと思った。
私は震える手で10万円を下ろした。
そして9万7000円のMacを買った。
"let's do what I like."
"I got what I wanted was my own money."
と当時の日記には書かれている。
恥ずかしいが全く英語がわからないので翻訳アプリで翻訳すると
"欲しかったものを自分のお金で手に入れた。"
"好きなことをしましょう。"
って意味らしい。
文字を見ると興奮していることがわかるな。ただ全く覚えていない。
10
私は新しくイベントスタッフの仕事をするために何社か同時に登録した。
そして毎日のようにイベントの仕事の設営撤去の仕事や受付案内の仕事をしていた。
アルバイトでお金を稼ぐには当たり前だけど時給×労働時間だった。
私は時給の高いアルバイトはスキルがないので諦めて長時間働くしかなかった。
それでもほぼ毎日働いていたのでいつのまにか月に30万円程稼ぐようになっていた。
ただこんな働き方はいつまでもできるとは思っていなかった。
長期的に見たら今やっていることは間違いだと薄々感じていた。
お金を稼げば稼ぐほど払わなくてはいけない税金は上がっていくのに対して、私はなんのスキルも経験も蓄積しておらずただ長時間働いているだけだった。
それでもお金が欲しかったので我慢して仕事をしていた。
どうしても辛いときは、休憩中に預金残高が増えていることを確認しに行き、頑張ろうって思っていた。
11
私は英語のスキルは勉強する前よりは少しずつ上がってはいたものの、話すにはまだ遠かった。
それでも外国に行って現地の人と話していたら、自然に話せるようになっているものだと思っていた。
そして外国から帰ってきたら、英語を活かした仕事に就けるものだと勝手に勘違いしていた。
そんな人はごく少数でほとんどの人が日本に帰ってからアルバイトをしているという現実を知ったのは、パソコンを購入して色んな人のブログを見かけるようになってからだった。
ワーキングホリデーと留学を私はごちゃごちゃにして考えていた。
外国に勉強しにいくための留学とは全く違い、ワーキングホリデーは休暇を楽しみながら就労したり語学学校に行ったり、日本とは違う文化を学ぶ制度であった。
中にはワーキングホリデーを活かして外国の企業に就職できる人もいるみたいだが、元々英語力が高かったり、ごく少数の限られた人達だけだった。
多くの人は日本に帰ってから普通の企業に就職したり、アルバイトしたり、中には遊んでいただけと会社の人に思われて次の就職が難しくなったという人も見かけた。
私は落ち着いて1年から2年休暇を満喫した後私になにが待ち受けているのか考えてみた。
今、必死にアルバイトをやり続け、苦労して貯金したお金は全てなくなり、実家に戻ってまた仕事を探すという環境だった。
実家に帰るという選択は私の人生のピリオドを打つ行為に等しかった。
12
ワーキングホリデーの事務局には既に20万円ほど支払っていて、ここにきてワーキングホリデーを断念するなんてことは嫌で嫌で堪らなかった。
しかしワーキングホリデーに行った先でも現実は待っていて、ワーキングホリデーから帰ってきた後も現実は待っている。
ワーキングホリデー先でも生活のために英語を使ってアルバイトする必要があるし、帰ってからも生活のためにアルバイトや就職する必要があった。
一発逆転なんて基本はない。
英語を学ぶのも、仕事を覚えるのも一歩一歩なのだ。
このタイミングで辛い現実から目を背けるのは、それこそこれからの自分の人生を投げ出す行為と等しかった。
ワーキングホリデーに行けばお金がなくなり実家に帰省しなくてはいけないことだけはわかっていた。
私はこの頃、ベトナムのダナンに母と二人で旅行に行っている。
母親がどうしても私と旅行に行きたいっと言っていた。
私も一度くらい親と旅行に行ってみようかという気分になっていた。
母親との旅行は正直、あまり楽しくなかった。
私が子供に戻ってしまい全て親にやってもらってしまったからだ。
結局、私は心底甘えん坊なのである。
私は母親に対して
「やっぱり実家に帰らない。甘えちゃうからね」
と宣言したことを覚えている。
母親は曖昧に笑っていた。
私は今まで英語で書いてきた日記を日本語に戻すことにした。
約1年間で80万程貯金して、20万くらいワーホリに支払い、パソコンで10万くらい使ったことは覚えている。
13
賢明な読者の方はお分かりだと思うが、これは私の場合はワーキングホリデーには向いていなかっただけであり、ワーキングホリデーをきっかけに結婚して幸せになった人を私は知っているし、この制度を上手に利用して英語を習得した方もいると思う。
ただ私の場合はただの現実逃避にしかなっておらず、友達に英語を喋り、自慢し、マウントを取りたいだけのコンプレックス野郎であり、結局なんの解決にもなっていなかった。
結局、辛い現実とは向き合わなくてはいけない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?