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読書メモ26「方法序説」

言わずと知れたデカルト先生。
「我思う、ゆえに我あり」
Je pense, donc je suis.
Cogito, ergo sum.
で大変に有名で、学校出てない私も知ってる。
名前も知ってる。

でも、読んだことがなかった。
薄いし、読んでみよう!と思い立ち買ってみた。
けどなかなか読み進まなかったのは時代背景と
科学の進歩のリンクが今ひとつ分かってなかったから。

小さい頃に布団に入って考えた。
「死んだらどうなるんだろう」
みんな考えるやつ。
死ぬって、心臓止まって、息しなくなって
見えない聞こえない話さないになるんだろうな。
やじゃないのかな。
ん?
「やだな」と思う「わたし」はどこにいるの?
それを考えるのって脳みそ?
脳みそも死んだら考えられないの?
あれ?じゃあ「わたし」はどこへ?
「考えてるわたしがいるってことは、生きてるってこと?」

というアレは、当然大昔に生きていたデカルトも考えていたわけで
それを思うと
人類の歩みのようなものを私もちゃんとなぞって生きているのだなあと
うっすら感動すら覚えるのだ。

母子が分離されてから、自我ができて、ってのも
人類が人権を発見したりした経緯みたいなもんだし。

それを言ったら、受精卵からヒトになるまで
地球の歴史みたいな勢いでできあがってくるわけだし。

有名な一説についてはそんな感じなんだけど
「神はわれわれ一人一人に真と偽とを分かつ何らかの光を与えたのだから、もし後に時節がきて自分自身の判断力をもちいて他人の意見を検討しようと期していなかったならば、わたしはほんの一瞬でも他人の意見に満足すべきだなどとは思わなかっただろう。」
などなど、自分の頭で考えて生きる方法について書いてあるなあなんて
思いながら読んでた。

この辺の時代のこととかを読むときに注意が必要なのは
キリスト教のことかなあ。日本人には掴みにくい感覚かも。

さて私が大好きになったのは意地悪さである。

「学校で行われている討論というやり方で、それまで知らなかった真理を何か一つでも発見したというようなことも、見たことがない。というのは、だれもが相手を打ち負かそうと懸命になっている間は、双方の論拠を考量するよりも、真実らしさを強調することに努力しているからである。長年すぐれた弁護士であった人が、そのために必ずしも、あとでより良き裁判官になるわけではない。」

「好奇心や知識欲から助力を申し出る志願者はふつう、実行の及ばぬ約束をし、一つも成功しないようなりっぱな提案をするばかりでなく、報酬としてきっと、いくつかの難問の説明とか、少なくともお世辞やむだな会話を求めてくるのであり、そのために失われる時間はけっしてわずかな損害ではない。」

どうよ、この意地悪。偏屈。大好きだ!

こっちも読んでみたくなるし、他のデカルト本人のも読みたい。
どんな意地悪繰り出してるんだろう。

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意地悪なルネが好き。
好きすぎて顔まで描いちゃった。
おしまい。

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