「勘違いさせる力」と本当の自分

「勘違いさせる力」が重要

「人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている」という本があるのですが、これはかなり面白いです。

ここで書く文章は私が書きたいから書いているだけなので、わかりやすく解説するつもりはあまりないです。
ここでは、どのような点で面白かったか書きたいと思います。
読んだのは結構前なので、細かい点は忘れていたり、他の本や知識と混ざっている可能性があると思います。また、作者のふろむださんが言っていないようなことを書いてしまうかもしれません。
ここで書く文章はあくまでも、この書籍を読んで(しかも読んでから結構時間が経って)私が感じたことです。

私たちは「数値化された実力」みたいなものがあると錯覚している

子供の頃、私はコーエーの三国志というゲームをするのが好きでした。
戦略シミュレーションゲームなのですが、武力・知力・政治力・魅力などの能力値が武将ごとに数値化されていて、その数値の優劣で戦争・外交・内政を優位に進め、最終的に中華統一を目指すゲームです。
あるいは、サッカーゲームのウイニングイレブン。これは三国志よりももっと細かく、オフェンス、ディフェンス、シュート力、キック精度、ロングパス精度、ショートパス精度、スピード、加速力などのパラメータが数値化されてそれぞれの選手の能力が表されていました。
カードゲームでもそうですね。攻撃力・守備力のようなパラメータが設定されていました。カードのレベルによっては生贄が必要、とか。

これもうろ覚えの知識になってしまうのですが、私が大学時代に少し勉強した国際政治学にも「リアリズム」という立場があって、これは国力というのはある面で数値化できるという立場だったかと思います。
あるいは、現在でも使われている国家の付加価値の合計を表すGDPというパラメータがあります。マスメディアに限らず色々なところでGDPの上位各国を並べて、「経済大国ランキング」みたいな見せ方をしていますね。

なんでこんな話をするかというと、私たちは無意識にこうしたパラメータのような数値化された能力や実力という世界を信じてしまっている、という可能性があるということです。
数値化できる世界観は魅力的で、複雑な世の中を単純に割り切って理解することができます。

こうした世界観の中で注意しなければならないのは、自分自身の実力みたいなものが「数字」としてあって、それを伸ばしていくための研鑽こそが重要、という考え方です。

人間はみんなバイアスがある

それが無駄、というわけではないのだけど、例えばたくさんの資格を取るための努力。もちろん、資格のための勉強そのものが楽しかったり、資格をたくさん取ることそのものが楽しい場合もあります(まぁ、一般的には手段が目的化していると言っていい状態で、それを普通は「趣味」というかと思いますが)。
ただ、これを一種の数値化した実力と勘違いしてしまうとまずいわけです。
そんなことよりも顔がイケメンであったり、身長が高かったり、人当たりがよかったりすることの方が重要だ、ということです。
確かに、理性では資格を持っている人と、資格を持っていない人では、当然前者の方が優れている、ということになるし、書類審査とかだったら前者が選ばれるのだと思います。
だけど、人間にはみんなバイアスがあって、イケメンで高身長でそれっぽいことを言っている人の能力を高く評価してしまいがちなのだそうです。

イケメンであることに引っ張られて、きっと頭もいいはず、きっとプレゼンテーションがうまいはず、と勘違いしてしまうのです。これをハロー効果というようです(間違ってたらごめんなさい)。
実際、選挙で選ばれる政治家はイケメンであればあるほど、高身長であればあるほど、選ばれやすいっぽいです。しかも、選んだ側はその理由が「イケメンだから」とは全く思っていないのです。つまり、無意識に「イケメン=能力が高い」と信じてしまう、ということのようです。

数値化された能力があるとして、それは他人には見えない

私たちが共有している世界観として、「数値化された実力・能力」というのは間違いなくあります。ただ、それは恣意的にしか判断されない、ということなのでしょう。
そりゃあ、そうですよね。一人一人の人生を全部覗き込むことは当然できないし、そもそも一人一人の見極めにそこまでかける時間はないですからね。なんとなくの印象でその人の実力を決めてしまう、というのはあるのだと思います。
つまり、仮に数値化された能力が(例えば神の視点で)あったとして、それは他人からは見えない「マスクデータ」になっている、ということなのかもしれません。
そして、その「マスクデータ」をバイアスたっぷりに判断してしまうために、(場合によっては)勘違いして、能力の低いイケメンを評価してしまう、ということです。

ただし、イケメンは能力が高い?大事なのは実力よりも実績

ただ、ここからが重要で、他人から能力が高いと勘違いされがちな人はそれだけバッターボックスに立つ回数が増えるから、元々の実力は低かったとしても、実績が増えていくということ。
なので、「マスクデータ」としての能力値が(神の視点で)元々相対的に低かったとしても、結果的にバッターボックスに立ち続けて、気づけば「マスクデータ」としての能力値も相対的に優位になっていく、とのことです。
これは結構衝撃的でした。

得られた教訓と難しさ

まとめると、数値化された実力・能力はあったとしても目には見えない。だから、他人から値踏みされるスタート地点はその目に見えない数値化された実力・能力ではない。
大切なのは実績を積むこと。そのためには出来るだけ多くの打席に立つこと。そして、そもそも打席に立つためには、そのチャンスを掴むためには、目に見えない数値化された実力・能力の研鑽をすることではなくて、「勘違いさせる力」が重要であるということ。

本当にしょうもないのですが、この本を読んでから私は見た目に気を遣うようになりました。スーツの着方だったり、伸びっぱなしの髪の毛、腕の毛、表情などにも気を遣うようになりました。その意味は、自分の好きなような格好をするのではなく、他人が期待する、陳腐な表現をすればTPOにあった装いをする、ということかと思います(この辺のことはまた別の書籍でも勉強しました)。
でもそんなことが結構重要だし、効果があるとよくわかりました。
どんなに英語が喋れても、どんなにプレゼンがうまくても、この辺のことができていないとそもそも打席に立つのが難しく、その「実力」を発揮することができません。

なんで今日はこんなことを書いているのか

自分への戒めとして書いている部分があります。
ここまで書いたことが分かっていながらも、私は要領がよく、人当たりがいいひとに対してあまりいい感情が抱けないのです。多分嫉妬に近いものがあるかもしれません。自分でも醜いと思っています。
私は元々あまり社交的な人間ではありません。必要がなければ人とはあまり喋らないタイプでした。MBTIはINTPですし、エニアグラムはタイプ5です。
そんな私にとって、要領がよく・人当たりが良いだけ(と私が勝手にバイアスたっぷりに思っている)の人は憎い存在なのです。
私の方が客観的には10倍の仕事をしていても、要領がよく・人当たりがいい人は、同じだけの仕事をこなしているように見えてしまうのです。要はそういう人たちは自分の仕事をPRするのがうまいのです。

で、結論ですが、そう言った人たちに嫉妬する必要はない、ということ。また、自分が出来もしないことはやるべきではない、ということです。
ただし、冷静に考えて多くの打席に立てているかどうか、については止まりながら考えたほうがいいかもしれません。

うーん、このあたりの答えは今日は出なさそうですね。
もう少し考えることにして、今日はこんなところで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?