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知内町の魅力再発見!#1        歴史と自然、文化が織りなす物語


知内の町名の由来は「チリ・オチ」というアイヌ語の音訳であり、チリ・オチとは「鳥のいるところ」という意味を持つ言葉です。
知内は鷹の産地として有名で品質も良く、その昔、松前藩から徳川幕府に献上されていたそうです。

1. 知内町の歴史は旧石器時代から

さて、知内町の歴史は長く、確認されている人跡は旧石器時代にまで遡ります。
現在、町内では32ヵ所の遺跡が確認されており、内、調査によって詳細まで判っているものが8ヵ所、中でも湯の里遺跡群の[湯の里4遺跡]は旧石器時代から縄文時代晩期までの最も古い遺跡ということで、日本国内でも貴重な資料となっています。

(旧石器時代の墓副葬品|コハク製の垂飾とカンラン岩製の垂飾と小玉|知内町郷土資料館所蔵)

この[湯の里4遺跡]では縄文時代の層の下から石器が出土しています。細石刃石器群や尖頭器石器群、更には小玉やコハク製の垂飾も発見され、その出土状況からこの遺跡は約1万4千年前の墓、旧石器時代のものだと確認されています。

尚、湯の里4遺跡から出土した垂飾1点と小玉3点については、その石質から大陸産の可能性が高いということで、果たして誰が?どこから?何の目的で持ち込んだ物なのか?大陸との交流の有無、その深浅が気になってしまう程、非常にロマン溢れる調査結果が出ている状況です。また、それらの出土品ついては学術的価値が高いということから1991年(平成3年)6月に国の重要文化財に指定されています。

何と縄文時代の知内人(?)は既に津軽海峡を渡り、本州と交流していた可能性もあるそうです。
想像を遥かに超えた悠久の昔から、本州との文化・経済的交流が行われていたのだとしたら、その最新形が「北海道新幹線」なのかも知れません。

2. 約800年も前に和人が上陸していた?

 言い伝えや文献などから調査した結果では、大凡、鎌倉時代から室町時代にかけて、本州から和人が入ってきている例が多くみられるということです。

 北海道で最も古い神社である同町の雷公神社、その神社に伝わる北海道最古の古文書「大野土佐日記」などによると、鎌倉時代である1205年(元久2年)船で漂流した末、漂着した者が知内に最初に来た和人であると伝えられています。
 また同年に甲斐の国(現在の山梨県)は伊原郡の領主、荒木大学が鎌倉幕府の命によって砂金を採取する目的で知内(涌元地区)に入ったとも伝えられており、砂金を採取するために従事した人夫たちによって北海道最古の温泉[知内温泉]が発見されたという逸話も残っています。

 取分け歴史が浅いと言われている北海道ではありますが、前述の通り知内で1万4千年前の墓が見つかっていること、鎌倉時代に和人が知内に上陸したこと、もちろん和人上陸の以前からアイヌの方々が住んでいたということなどから、長い歴史の中で多くの営みがあり、命が繋がれて今私たちが生かされているという時の重みを感じます。


(縄文時代の住居イメージ|Author:Qurren|FileName:houses.jpg|by.WikimediaCommons)

 縄文時代に津軽海峡を渡るのは正に命懸けであり、非常に危険を伴うものであったことでしょう。
 津軽海峡の荒波によって多くの尊い命が失われたということも想像に難くありません。

3. 先鞭者への感謝、そして未来へ・・・

 現代に生きる私たちは、青函トンネルが完成し、北海道と本州が鉄路で繋がり、ついには北海道新幹線の開業にまで至ったということを心から感謝すると共に、多くの方々の犠牲の上に北海道の文化が高まり、今があるということを深く受け止め、更なる発展を目指して取り組んでいかなければならないものと考えます。

(青函トンネルを出た直後の北海道新幹線|知内町青函トンネル記念撮影台より)

本州から新幹線に乗ってきた方が最初に見る景色は知内町の大自然、そして田園風景です。

知内町の歴史を知ることで、その景色はより深く味わいのあるものに感じて頂けるのではないでしょうか。


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