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「女記者が見た、タイ夜の街」第5回:スラムから這い上がった女性たち


■「タイ人でも近寄りたくない」

「病気、薬物、売春がはびこる、タイ人でも近寄りたくない場所だよ。そんな所へ何しに行くんだ?」

タイの首都バンコク最大のスラムと呼ばれるクロントイスラム。高層ビルが立ち並ぶ中心地からわずか数キロの場所に、約10万人の低所得者層が暮らしている。トタン屋根の粗末な住宅が密集し、場所によっては電気がまだ通らない家もある。

タクシー運転手に「クロントイスラムに行きたい」と告げると、冒頭のような答えさえ返ってきたことがある。

タイでは経済成長に伴って、農村部や山岳地帯、隣国からバンコクに出稼ぎに来た貧しい人々が、このスラムに移り住んできた。女性は生活のため、夜の街で売春をする道を選ぶ人も多かった。

そのスラムで育ち、やがて教師になり、政治家にまでなった女性がいる。長年にわたりスラムの子供たちの教育を支援し、アジアのノーベル賞とも呼ばれるマグサイサイ賞を受賞した、プラティープ・ウンソンタム・秦さんだ。

プラティープさん(右、ドゥアン・プラティープ財団提供)

■現れた小柄な女性

筆者は2019年、プラティープさんに会うために、クロントイスラムを訪れた。17年からこのスラムを度々取材していたが、彼女に会うのは初めてだった。

取材に現れた彼女は、小柄で穏やかな雰囲気を持ち、人間として生きるための最低限の権利を勝ち取るため、壮絶な戦いをしてきた人物とは思えなかった。

しかし、彼女が話し始めると、その印象は一変した。

「クロントイスラムで生まれてから今まで、水、電気、教育、住む場所を得るため、私の人生はずっと闘い続きでした。現在のスラムは昔よりも穏やかに見えるかもしれませんが、政府が立ち退きを求める中、いまでも住む場所を確保するため、私たちは闘っているのです」

■抜け出せない貧困

プラティープさんは、1952年にこのスラムで生まれ、幼い子どもの頃から路上で物売りを始めた。4年制の小学校を卒業し、その後は鍋工場や花火工場で、13歳には近くのクロントイ港で働き始めた。

港では船体の錆落としや船荷の積み下ろしなど、13歳の少女には過酷すぎる重労働を強いられた。朝から晩まで働けど、貧しさからは抜け出せない。しかし、一歩スラムの外に出れば、「スラムにいる者は怠け者だ」といじめられ、後ろ指をさされる人生だった。

「このスラムの子たちに、自分と同じ目に合わせてはいけない」

1968年、彼女が16歳の時、貧しくて教育が受けられない子供たちのために、自宅の庭で塾を開いた。教材用に毎日1バーツを持たせてほしいと子供の親に頼んだため、やがてこの塾は「1日1バーツ学校」と呼ばれるようになった。スラムの子供たちが次から次に集まり、その数は60人に上った。

同時に、少しずつ貯めていた金で夜間学校にも通い始めていた。母は貧しくても、彼女が学業を続けられるよう応援した。教育だけが貧しさから抜け出せる道だと知っていたからだ。

■学校に立ち退き命令

しかし、ここからプラティープさんの本当の闘いが始まった。

1972年、当局からクロントイ港の拡張計画に伴い、スラムの住民に立ち退き命令が出る。このスラムは正式には、クロントイ港湾局の土地だったためだ。

スラムにあった1日1バーツ学校にも、「無許可の学校運営は許されない。閉鎖せよ」との命令が下る。既に生徒は200人を超えていた。

「日々の食事に追われる生活のスラムの住民から、寝る場所まで奪おうというのか」

貧しい人々が行ける場所など、ここ以外、どこにもない。プラティープさんは怒り、「立ち退き反対」のプラカードを掲げ、当局へ交渉に行った。さらには、当時スラムにあった2,000軒の家を訪ね歩き、土地の権利を主張するために立ち上がろうと住民に呼び掛け、組織をつくった。

彼女の奮闘ぶりに、マスコミも注目するようになり、住民との団結も深まって、当局との交渉は優位になった。

結果として当局は、立ち退きの対象になった住民が新たに住める場所を確保し、プラティープさんのために半エーカーの土地を用意することになった。

報道を見て、学校設立にかかる資金を支援してくれる人、団体も現れた。こうして学校のなかったスラムに、「パタナ村共同学校」という政府公認の学校が開設されることになったのだ。

しかしながら、スラム住民への立ち退き要請は度々行われ、数十年たった現在も、当局と交渉中のままだ。住民らの闘いは今もなお続いているのだ。

■現実逃避する子供たち

スラムの家庭は、片親だったり、親が仕事をしていなかったり、また両親が金や生活のことで毎日喧嘩になって、不仲なケースが多い。

そうした子供たちは、家にいるのが嫌になって、街に出て非行に走ったり、薬物で現実逃避をしたりする。生活のために、幼い頃から売春婦になる道を選ぶ女性もいる。

しかし、この学校は、希望のなかった子供たちに夢を与えた。

1983年に発刊された「スラムの天使」には、パタナ村共同学校に通っていたある少女の、こんな決意が掲載されている。

「私はどんなことがあっても学校に行き、一生懸命勉強し、上の学校に行きたい。プラティープ先生のような立派な人になりたい。看護婦さんになって、たくさんの病気の人を助けてあげたい」

少女の家は貧しく、父親は仕事をせず、母親とけんかばかりしていた。そんな彼女にとって、唯一の希望がこの学校と、プラティープさんだったのである。

クロントイスラムの様子。人々が助け合って暮らしている(2022年6月)

■「協力しあえば問題は解決する」

プラティープさんは同書のなかで、学校の子どもたちに向けてこう話している。

「スラムは決して特別なところではありません。堂々と胸をはって生きてゆきなさい。土地の問題のことは知っていますね。私と一緒に考えましょう。どんなことでもみんなで協力しあえば、いつか必ずその問題は解決します」

スラムで生まれ、生きるために身を粉にして働いてきたのに、世間から馬鹿にされてきた彼女が、どんな環境であっても子どもたちにプライドを持って生きていってほしいという、強い願いが込められていた。

こうした功績が認められ、1978年、プラティープさんはマグサイサイ賞を受賞。得た副賞2万ドルを「ドゥアン・プラティープ財団」の設立にあて、活動はさらに広範なものになった。87年、日本から国際ボランティアとしてスラムを支援していた秦 辰也氏(現・近畿大学教授)と結婚した。

2000~2006年にはスラム出身者としては初めて、バンコク選出の上院議員を務め、影響力を拡大していく。やがて秦夫妻のスラム支援の取り組みは、日本でも少しずつ知られていくようになったのだ。

■日本NGOの図書館が心の支えに

もう一人、スラムから這い上がった女性がいる。最貧困地区のスアンプルー・スラムから外交官になった、オラタイ・プーブンラープ・グナシーランさんだ。

オラタイさんは当時の生活について、過去にこう話している。

「狭い路地に板張りの家屋が並び、水道や電気、学校、医療などの設備や制度は一切ありませんでした。今、振り返ってみても、スラムでの暮らしは容易なものではありませんでした」

両親は東北部の出身で、父親は港で日雇い労働を、母親は夜遅くまで惣菜を販売していたが、生活は貧しいままだった。やがて父親は酒におぼれ、暴力を振るうようになり、母親とけんかを繰り返すようになった。

オラタイさんの心のよりどころだったのが、家の近くに建てられた図書館だった。この図書館は、日本のNGO「シャンティ国際ボランティア会」の支援によって運営されていた。オラタイさんは両親が激しいケンカを始めると、この図書館に逃げ込んでいたという。

やがて毎日通い詰めるようになり、図書館にあった絵本、小説、参考書など約1万冊を読み切ってしまった。シャンティの奨学金を受けて学校に通い、高校2年生の時にアメリカへ留学することもできた。

高校卒業後は、タイの名門、国立チュラロンコン大学文学部に合格。大学1年生の時に、倍率約100倍の、タイ政府の外交官養成試験に合格したという。ロシア語の専門家となったオラタイさんは、外交官として働き始め、王妃やタクシン元首相、プラユット前首相などの通訳も担当してきた。

オラタイさんによると、いまスアンプルー・スラムでは、大学に行きたいという子供たちが増えているという。彼女らのこうした成功が、貧困から抜け出す道筋を、次世代に示しているのだ。

■貧困解決のカギは・・・

プラティープさんは、タイの貧困について、このように語っている。

「「無知」と「貧乏」と「病気」。これらの三つがタイ社会では貧困の悪循環である、と私は思っています。つまり、家が貧しく、小さい時から働かなければならず、学校にも行けない。

そうすると文字の読み書きもできず、社会が見えないばかりか自分さえも見えなくなってしまう。教育がなければ、まともな仕事にありつけず、非熟練労働者としてなんの保証もない生活をしなければなくなって、貧乏になってしまいます。

そして、ついには自分の生活や置かれている状況に耐えきれなくなって、酒浸りになってアルコール中毒になったり、麻薬に手を出したり、売春婦になってしまったり、博打で大きな借金を抱えてしまったり、あるいは事故に巻き込まれたりして、病気やけがで死んでいきます。

親から子供たちへ、そして子供たちから孫へと、それを繰り返していくのです。その悪循環を断ち切るために、子どもたちへの教育を通して何とかしなくてはならない、と私は常々思っています」(体験するアジア・1997年)

2024年現在、タイでは経済成長に伴って中間所得層が拡大しているものの、いまだスラムには多くの貧しい子供たちが暮らしている。コロナ禍に訪れた際には、子供らが不衛生な環境で、十分な食事さえ取れていない状況を見た。

コロナ禍で父親が失業した一家。近隣で食べ物を分け合って生活していた(2020年3月)
クロントイスラムの一画。ゴミがあちこちに散乱していた(2020年3月)

貧困問題にはさまざまな問題が絡み合って、解決への道は決して容易ではない。しかし、プラティープさんとオラタイさんの例は、「教育」がその解決のカギになると教えてくれているのではないだろうか。

そして解決に向けてもう一つ重要なのは、貧困層の所得の向上の問題である。

これまで筆者が取材した、タイの性風俗従事者の多くは、国内で経済的に最も貧しいエリアといわれる東北部出身だったが、その背景には、一体なにがあるのだろうか。

次回、「タイ東北部が貧しい本当の理由」で考察する。



●筆者の過去のクロントイスラムに関する執筆記事


●参考URL/文献

・体験するアジア ボランティア夫婦の日本・タイ共生論(秦辰也 プラティープ・ウンソンタム・秦、明石書店)

・スラムの天使 プラティープ先生と子どもたち(森小夜子著、学陽書房)






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