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娘を育てること

世の中の大半の人は、自分の家しか知らない。

自分の生まれ育った家庭、しか。

親戚だとか、友達の家だとか、多少は行き来があったとしても、四六時中いるわけではないから、そのお家の本当のところは分からない。

そんな、自分自身が生まれ育った家庭しか知らないままに、自分自身が家庭で受けたしつけなり教育なりしか知らないままに、大人になって家庭を持って子育てをする、って、ある意味無謀というか恐ろしい側面もはらんでいるのではないかとも考える。

だって、知らないんだもん。

子供の頃に自分が過ごしていた家庭での日常や雰囲気や教えられたこととか会話とか、それだけしか。

そうしてそれをもとに、はい、結婚したんだから、家庭を持ったんだから、親になったんだから、って言われても、これくらいできて当たり前でしょう?親なんだから、とか言われても、それは、ムリ、みたいなことだって、人によっては十分、起こり得る。

だって、当たり前、の家庭を知らないんだもん。

だから、虐待とかのことが起こったとして、事を起こした本人を責めるだけでなく、その親、さらにその親、から続くその家系の歪みみたいなものも本当は紐解いていかないといけないんだろうな、って思ったりする。

いずれにしても、当たり前、でない家庭に育った人間が、大人になって(本当は、なるまでも)、家庭を持って、子育てをして、というのは恐らくとてつもなく大変な、こと。

中でも、当たり前、でない母親に育てられた女性が、母親になって娘を育てること、はそれに輪をかけて大変なこと、だと私自身は思っている。


娘を通して、自分自身の幼かった頃を、そしてその自分自身の隣に良くも悪くも貼り付いているような母親を、もう一度、目の当たりにしなければ、ならないから。

それほど、というか、できれば思い出したくもない、母親とのやり取りや、言われたことや、傷付いたことの数々と対峙しながら、目の前の娘を育ててゆくこと、のやっぱり息苦しさ、みたいなもの。


それは時には、ああ、この言い方や態度は、母親と同じじゃん、って自分自身に絶望感を覚えてみたり

娘とぎくしゃくする度に、しょうがないよ、私は娘の気持ちなんて分かってあげられないよ、だって、私が母親に分かってもらえたことなんてないんだから、っていう、諦めみたいな気持ちにもなったり。


それは、あんなのの娘なんだもん、っていう自分自身への諦め、私の中にずっとずっと巣食ってる思いでも、ある。


私には、子育てで、教育方針とか、こんな大人になってほしい、とかは、特になくて、ただ、ひとつだけ、自分が母親あるいは父親にされてイヤだったことはしない、ということだけを自分に言い聞かせて、やってきた気がする。


だから、娘は、少なくとも、私が子供の頃に感じていた、イヤな思い、はしていないはずで、それだけは、私が娘に対して、何も反抗ができない幼少期の娘を、娘の心を、守ってあげられたこと、のはずだ。

少なくとも、私は、母親から、多分母親の母親、その母親くらいから連綿と続いてきたであろう、負の連鎖みたいなものを、多少は、断ち切った、はずだ。

断ち切るのだ、という意志と共に、これからも、おそらく巣立ちまで残りわずかの娘との生活を続けるのだろうなと思う。


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