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男の子とおばあちゃんと

そのスーパーは、個人商店を一回りか二回りか大きくしたくらいの感じで、暑い日にお肉やお魚を買うと、レジのおばさんが新聞紙でさっとくるんでから手渡してくれるような、そんなお店だった。

7月の暑い日。
昼下がり。

その日、私は特売の卵だかマヨネーズだかを目当てにそのスーパーへ足を運んでいたのだけれど、その男の子のお目当ては、別の特売品のようだった。

昔ながらの缶ジュース。
ちょっと細長い、250mlくらいのやつ。
コーラとか三ツ矢サイダーとかバヤリースオレンジとかの。

スーパーの狭い通路、私の横をひょいっと通り過ぎたその10歳くらいの男の子は、私の目の前で、ジュースの棚から、サイダーを何本も何本も取り出して両手に抱え始めた。

それはとてもとても嬉しそうに。
見ているこちらが嬉しくなるくらいの笑顔で。

今日はジュース安いからたくさん買ってきていいよ、ってお家の人に言われたんだろうなあ、って思って私はその子がすごくかわいく思えた。

私はその時、妊娠中で、だから余計に、その子がかわいく思えたのかもしれない。

でもその後も、細長い三ツ矢サイダーの缶を見ると、私は時々、その子のことを思い出す。

大好きなサイダーをこんなに買える、っていう喜びに、これから始まる夏休みに、夏そのものに、体の中から弾けてくるくらいの嬉しさを溢れさせていたその子のことを。

今、あの子は何歳くらいなんだろう、と改めて考えてみると、当時10歳だとしても、もう20代後半、30歳近くになっているはずだった。

もしかしたら、もう父親とかになってるかもしれないし、社会に出て、いろんなままならないことを経験したりする中で、自分の人生を考えたり悩んだりもしているのかもしれなかった。

でも、少年時代、あんなふうに、いい笑顔でサイダーを嬉しそうに買い込んでいた君だったら、大丈夫だよ、なんて、私は思ったりもする。


東野圭吾の「容疑者Xの献身」を小説で初めて読んだ時、トリックの衝撃とかいろんなテーマはもちろんあるけれど、私の中で一番心を掴まれたのが、終盤に出てきた一文だった。

「人は一生懸命生きているだけで、誰かを救っていることがある」

そんなような一文で、私にとっては、ああ、これまでの物語は全てこれに集約されるんだ、って思えた瞬間だった。

楽しそうに、喜んで生きるその姿、それは、見る人にパワーを与えてくれる。

本人が無心であればなおさら。

逆に、つらいのを通り越して笑うしかないような状況の中で、それでも頑張って気力を奮い立たせて生きてる姿も、やっぱりその姿そのものが、尊い。

だから、楽しんで、喜んで生きられる時には、思いっ切り楽しんでしまえばいい。

楽しんでなんかいられない時には、しょうがないけど、でもそれでも生きてるだけで、すごいこと、このご時世では特に、ってそう思う。


男の子と出会った同じ時期、駅のホームで、知らないおばあちゃんに話しかけられたことがある。

そこの階段で転んじゃったのよ、ってそのおばあちゃんは言って、手のひらと顔に付いたかすり傷を見せてくれた。

あら大変、ほかは大丈夫?大事に至らなくてよかったですね。

そう言った私に、おばあちゃんは身の上話をし始めて、最後に、転んだなんて言ったら娘に怒られちゃうわ、って言った。

私とは反対方向の電車に乗るおばあちゃんを見送ってから、私は自分の電車に乗った。


あのおばあちゃんは、今何歳なんだろう。

もしかしたら、亡くなっていてもおかしくはないのかもしれなかった。



サイダーを買っていた少年は30近くになり

駅の階段で転んじゃったおばあちゃんは亡くなっているかもしれなくて

そして、当時私のお腹にいた娘は高校三年生になって、進路に悩んだりしている。


誰の上にも平等に流れた、18年、という歳月を思う。

結局私たちは誰もが、死に向かっていることには変わりなくて、生まれた以上、いつかは、必ず、死ぬ。

そうであればなおのこと、全てを楽しんでしまったほうが、バカみたいに笑い話にしてしまったほうが、得なんだろうな、とも思う。




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