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【試し読み】J庭55新刊①「夏の手紙 君の運命になれたなら〜初恋オメガバース〜番外編集」


「制服と揚げパン」

「じゃあ、うちのクラスは制服カフェに決定ー! 店員はシフト制で、田村、吉原、三上に新田、そんで堀川と深山な」
 急に名前を呼ばれたことで、朔の意識は英文法の教科書からホームルーム中の教室へ戻ってきた。顔を上げると、教壇に立つクラス委員が黒板に今あげた名前を書いているところだった。
 このホームルームでは文化祭の出し物を決めていたはずだが、朔はあまり行事に興味がなく、傍観を決め込んで英文法の小テストの復習をしていた。
 集中すると周りが聞こえなくなるたちなので、話し合いがどういう方向に向かったのか把握していなかったが、自分が何かの役割を与えられたのは間違いないらしい。
「俺ら今呼ばれた? 店員って何」
 隣の堀川の机をつつき、声をかける。入学から半年が経ち何度か席替えを経たが、堀川とはいつも席が近い。
「え、聞いてなかったの? 一緒にやろうぜって言ったら『うん』って返事したじゃん」
 そういえば、堀川に声をかけられ適当に返事をしたような……気もする。
「やるって、何をだっけ?」
 堀川は実に楽しそうに笑った。
「制服カフェの店員! 女子高生の制服着て、飲み物出したりすんの。おもしろそうだろ?」
「…………」
 女子高生。制服。
「はああああっ⁉︎」
 たっぷり一拍置いて、盛大に叫んでしまった。
 教室中の視線がいっせいに朔に集まる。
「どした深山。そんなに可愛い制服着るの楽しみか」
 話し合いの進行をしていた委員長が、にやつきながら言う。
「ちっげえよ! なんだそりゃ、女装なんて絶対いやだからな!」
「大丈夫大丈夫、深山なら絶対似合うって。そのへんの本物女子高生より可愛いんじゃね?」
 委員長のふざけた発言に、言えてるわーとなどと同意の声が次々に上がった。
「そんな心配してねえ!」
 必死に抵抗するが、無情なクラスメイトたちは朔を無視し、もう決定事項として話を進めてしまう。
 こんなことなら、もっとちゃんと話を聞いておけばよかった。誘いをかけてきた堀川を睨むが、本人はいたって楽しそうに「姉ちゃんに制服借りよーっと」などと言っている。
 朔は審議のやり直しを求めたが、委員長の一言が決定打となった。
「話し合いに参加しないで内職してたのが悪いと思いまーす」
 確かにその通りではあるのだが。それにしたってひどすぎやしないか。
 なぐさめるように、堀川が朔の肩をぽんと叩く。
「絶対楽しいって! ところで朔のぶんも姉ちゃんたちから制服借りようと思ってんだけど、セーラー服でいい?」
 
     *

 憂鬱。
 今の朔の気分を表すなら、その一言しかない。
 ついに忌々しい文化祭の日がやってきてしまった。
 学校を仮病で休もうかと本気で考えたのは、今日が初めてだ。しかしがっつりシフトに組み込まれているので、朔が抜ければクラス中に迷惑をかけてしまうし、一度決まったことを投げ出すのは性に合わない。そんな自分の妙に真面目な性格を恨めしく思うほど、本当に嫌だったが。
 朔は本日二十回目のため息をつき、がらりと扉を開けて教室の中へ入った。
 瞬間、教室をなんちゃってカフェにすべく忙しなく作業していた全員の手が止まり、皆一様に呆然として朔を見る。

「夏の手紙」

 この古いマンションを初めて訪れたのは、高校生の時だった。
 五階建ての中層マンションなのに、薄汚れた白い外壁が映月を拒むように聳え立っていたことを思い出す。
「何やってんだ? 早く行くぞ」
 エントランス前で立ち止まっていた映月を振り返り、朔はさっさと中へ入っていってしまう。
 今日は朔の実家であるここに、入籍の挨拶のため訪れた。先日交際の報告で赴いた映月の実家よりも遥かに温和で、ふたりの交際を応援してくれている眞琴が相手であるはずなのに、掌がじっとり湿るほど緊張している。
 筧家とは縁が切れても構わないと覚悟が決まっていたから、いっそどうにでもなれという気持ちだった。しかし眞琴はこれからもつき合っていく大切な相手だ。朔とつき合い始めてから何度も一緒に食事をしたり泊まらせてもらったことはあると言っても、改めて挨拶するとなると肩に力が入ってしまう。
 一方朔は挨拶というより単なる帰省の感覚らしく、服装もトレーナーにジーンズとラフだ。映月はスーツで行こうとしたのだが、大袈裟すぎると止められた。
「緊張してんのか?」
 ドアを開ける直前、からかうように言われる。
「失敗できない」
 神妙な面持ちで言うと、朔は噴き出した。
「なに、失敗って。籍入れるって話は電話した時にもう言ってあるし、眞琴も『そうなんだ〜』で終わりだったぞ」
 まだ心構えが充分でないというのに、さっさとインターホンを押してしまう。
 十数秒後、ガチャガチャという音のあとドアが開いた。
「おかえり。電車混んでた?」
 もし朔の愛想が百倍よかったらこんなふうに柔らかく微笑むのだろうと思わせる眞琴の顔が、ドアの隙間から出迎えてくれた。
「そんなに。鍋の具材買ってきた。あと酒も」
「わ、ありがと。入って入って」
 訪問したのがちょうど夕食時だったので、眞琴はさっそく鍋の準備に取り掛かった。映月も手伝おうとしたが、「いいから座ってて」と言われてしまうと無理やり手伝うのも憚られ、だらだらくつろぐ朔の隣で背筋を伸ばして座っているしかない。
 ようやく眞琴の体が空いたと思ったら、すぐ鍋をつつきながらの団欒となってしまったため、入籍の報告をするタイミングをすっかり失った。
 今だ、と思って切り出そうとするたび、朔が先にしゃべり出してしまい、チャンスが流れていく。眞琴も久しぶりに息子と話すのを楽しんでいるようなので、強引に話題を切り替えることもできない。
 そうこうしている間に、がぶがぶと酎ハイを飲み続けていた朔の目が次第に細くなっていき、疲れたからちょっと休むと言ってソファで横になってしまった。
「あーあ、飲むならちょっとずつにしなよって言ったのに」
 安らかな寝息を立てる朔に毛布をかけてやる眞琴の姿は、小さな子供の面倒を見る母親のようだ。
 といっても映月はそれを現実で目にしたことはなく、ドラマか映画の中で見かけたのみである。本当に存在していたのだと——そして自分の愛する人はそうして育てられたのだと実感して、何か胸にくるものがあった。
 朔がいない状態で眞琴とふたりきりになるのは、少し気まずい。
 だが、こんな状況は初めてではなかった。
 今のように恋人の親という関係ではなかった、あの頃——十年近く前に、彼とふたりで話したことがあった。
「筧くん、お酒好き?」
 唐突に問われ、はっとする。
「普通……だと思います」
「焼酎とか飲める? ビールの方が好き?」
「あんまり好きとか嫌いとかないです。舌、鈍いんで」
 酒に限らず、風味とか出汁の違いとか、料理の細かい良し悪しもよくわからない。あまりこだわりがないのだ。
「じゃあせっかくだし、一緒に呑もうよ」
 そう言って眞琴が台所の収納から取り出してきたのは、中身が半分ほど減った焼酎の一升瓶だった。
 映月にはグラスを出して注いでくれたが、眞琴の方は、さっきまで水を飲んでいたマグカップになみなみと注いでいる。
「酒、好きなんですか」
「割とね。でも、家で呑むようになったのはひとり暮らしになってからかな。朔とふたりで呑んだりするの?」
「いや……朔はそんなに強くないから、家では別に。俺も、仕事のつき合いで呑むくらいで」
 話しながら、眞琴はまるで水みたいにマグカップの中身を減らしていく。なのに顔色ひとつ変わらない。
 童顔で物腰柔らかで、酒なんて呑めない、せいぜいカシオレという雰囲気に見えるのに、マグカップで焼酎……眞琴と同じペースで呑んだら、あっという間に潰れてしまいそうだ。
 だが映月には、酔いが回る前に果たさなければならないミッションがある。
「あの」
 両手を膝の上に置いた。
「朔……さんと、籍を入れようと思っています。それで、その……今後ともどうぞよろしくお願いします」
 なんだかおかしな日本語になっている気がする。緊張と焼酎のせいで頭が回らない。
 どきどきしながら反応を待っていると、眞琴は目を瞬き「あー!」と手を打った。
「だからさっきから何か言いたそうにしてたのかあ。朔が君を遮るみたいに話すから、なんだろって思ってたんだよね」
 やはり朔はわざとやっていたのだ。
「それで、許可はいただけるんでしょうか」
「ん? 許可も何も、ふたりが納得してるんなら俺から言うことは何もないよ。ていうか、朔から電話で『籍入れるから』って聞いてたし」
 反対されることは多分ないだろうとは思っていたが、いささか拍子抜けだ。
 映月にとっての親とは、無関心か過干渉か、その時の気分によって立ち位置を変えてくる存在だったので、眞琴のスタンスには驚かされるばかりだ。
 こんなふうに、ただ見守る親もいるのだ。世間一般では当たり前なのかもしれない。けれど映月は感動すら覚えた。義理であっても、この人と親子関係になることが嬉しかった。
「そっか。今日は挨拶のつもりで来てくれたんだね。朔は全然そういう雰囲気じゃなかったから……恥ずかしかったんだろうな。改まって『結婚します』なんて言うのが」
 微笑みながら、眞琴は朔の方へ視線を向ける。身を縮めるようにしてソファに横になっている朔は、ぴくりとも動かない。ぐっすり眠っているようだ。
「……感謝してます。眞琴さんが俺の手紙を朔に渡してくれなかったら、ここにこうしていられることはなかったから」
 感謝してもしきれない。眞琴には、親として朔と映月の繋がりを断つ選択は当然あったのだ。
「君の粘り勝ちだね」
 小さく笑い、おつまみを持ってくると言って眞琴は席を立った。
 台所に立つ眞琴の後ろ姿を、映月はじっと見つめた。動くたび、首周りが緩くなったセーターと後ろ髪の間に、古い傷が見え隠れする。
 番の印を持ちながらひとりで生きている彼の過去を、詳しくは知らない。映月にとっては、この世で一番愛しい存在を生み育ててくれた、優しく強い人であるというだけだ。
 その優しさに、かつての映月も救われた。
 映月が書いた、朔への手紙。
 闇のどん底にいた映月にわずかに残された、希望の欠片ともいえるもの。
 あれを眞琴が受け取ってくれなければ、今ここに自分はいなかった。

     *

 それまでの十八年の人生で、大きな挫折も絶望も味わったことはなかった。
「おまえは恵まれている」とたまに兄がこぼす通り、資質も環境も世の大多数より優れていると自覚していた。親子関係は正常とは言えなかったが、兄が半ば親のような役割も担ってくれたおかげで、不自由を感じはしなかった。
 両親や祖父のようなアルファ至上主義的な思想は持っていないが、上位数パーセントという恵まれた第二性は、自分の人生でプラスにしかならない——アルファであるという属性がマイナスの影響を及ぼす可能性なんて、想像すらしていなかった。
 無意識の傲慢だ。
 今となっては、アルファであることすら恥ずかしい。
 ドンドン、とドアが強く叩かれた。
 無視してベッドの中に深く潜り込む。また叩く音。それでも無視を決め込んでいたら、鍵のかかったドアノブをガチャガチャやる音まで聴こえてきた。舌打ちしてベッドを出て鍵を開ける。

「制服と劣情」

「……なんだこれ」
 寝室の隅にぽつんと置いてあった紙袋の中身を取り出し、映月は首を傾げた。
 何か服らしきもの——朔が買ってきたのかと思ったが、どこからどう見ても、それはセーラー服だったのである。
 まだ中に何か入っていると思って探ると、黒いハイソックスとロングヘアのウィッグまで出てきた。
「朔。これ、おまえのか?」
 リビングでテレビを見ながらコーヒーを飲んでいる朔にそれを見せると、朔はなんでもないような顔で「ああ、忘れてた」と言った。
「こないだ会社の懇親会のレクで、若手がそれ着てダンスしたんだよ。会場に忘れやがったから仕方なく俺が持って帰った。一応、総務が幹事だったから」
 なるほど、それでウィッグもあるわけか。布の感触を確かめると、いかにもイベントグッズとして売られていそうな安っぽさだった。
「ちょうど明日、資源ゴミの日だったよな。持ち主に訊いたら捨てといてって言われたし、まとめてゴミ袋入れとくわ」
 朔が歩み寄ってきて、セーラー服と紙袋を受け取ろうと手を差し出す。
 しかし映月は動かない。
「……? 早く渡せよ」
 痺れを切らし無理やり奪おうとするが、映月は両手に力を込めて阻止した。
「捨てたくない」
「は?」
 神妙な表情と声で、映月は言った。
「着て欲しい」
 呆気に取られたあと、たっぷり数秒の間を置いて、朔が思いっきり顔を顰める。
「はあっ⁉︎ 着るわけねえだろ!」
「高一の時、文化祭で着てた」
 今もはっきり思い出せる。長い黒髪にセーラー服を纏ったあの姿。清楚で凛々しくて可憐で、道行く人々の目を引いていた。
 あの頃は、まだ朔への気持ちを自覚していなかった。短い時間ではあったがデートのように校内を回ったけれど、なんとなく悪い気がして朔の姿をまじまじと見ることができなかった。今なら、余すことなく頭から爪先までじっくりと観察できる。
 朔は顔を真っ赤にして、唾を飛ばす勢いで怒鳴った。
「お……覚えてんじゃねえよ! 忘れろ! あれは仕方なく着せられたんだ。第一、もう十年以上経ってんだぞ。無理」
「いや、絶対似合う」
「何言い切ってんだよっ」
「高校生の時から体格あんまり変わってないだろ。いける」
 朔はまだぎゃーぎゃー喚いていたが、映月の意志は鋼鉄だった。
「着てくれたら、来月の掃除洗濯食器洗い、全部俺がやる。ゴミ出しも」
 ぼかぼか映月の胸を殴っていた朔の手がぴたりと止まる。
 家事は交代制だが、映月の方が残業が多い影響で、朔にこなしてもらうことが多い。それに朔の方がずっと手際がいいので、つい任せてしまいがちだ。
「……ほんとか? 残業多くてもやるか?」
 かかった。
「もちろん。来月は出張もないし、確実にやれる」
 取引先との会議の時以上に真面目な表情でうなずいた。
 朔のプライドは天より高いが、大人になってからはだいぶ柔軟になったと感じる。
 一ヶ月ぶんの家事にかかる時間と、恥をしのんでセーラー服を着る数分。そのふたつを天秤にかけている間、唇を噛み締めたりぎゅっと眉を寄せたり低く唸ったりと、見ていておもしろかった。
 やがて天秤がセーラー服に傾き始めたのか、「途中でやめるなよ?」「破ったら罰金百万だぞ」などと何度も確かめ——ついに。
「…………ちょっとだけだからな」

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