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63.支倉常長と茂庭綱元

このノートでは転生を中心に、私個人の体験から考えた人物像や、史料とは異なる歴史の考えを勝手に書いています。
ですから、間違っているように思われる方も多々おられるかと思いますが、このノートの「自由」の良さを満喫しながら楽しんで書かせていただいておりますので、素人の話しとしてご容赦いただければ幸いです。

なぜこんな前置きをしたかと言いますと、歴史の勉強をしていると、あれ?と思えることがあります。例えば、今回お話しします支倉常長が乗った船に関しても、伝えられている名称や、新たに建造された再現船に関しても、説明されている根拠が曖昧だったりと、疑問点が多々みられるのです。

そのような観点と、転生からの観点を踏まえてお話ししたいと思います。

まずは支倉常長と私の前世の茂庭綱元との関係ですが、常長は山口常成の子として誕生しましたが、支倉家に養子に出されました。後に養子先で男子が産まれたため、600石を分け与えられ分家します。
その後、前父が罪を犯し死罪となります。常長は親子とはいえ、一度家を出た身であるので死罪は免れ、600石の知行を召し上げられ、謹慎処分となりました。

父親の死罪を裁いたのが、奉行の茂庭綱元だったのです。遣欧使節に常長を選んだ理由が史料には見つかりませんが、常長の今までの業績を把握して、政宗公に推挙できる立場の人間は、綱元以外ないと思われます。
常長はローマ法王と謁見してイタリアまで行きましたが、帰りは横澤将監が政宗公の指示で迎えに行っています。
常長が日本を発ったあと、キリシタンの弾圧が激しくなり、うっかり帰国されると伊達家の立場が危うくなる恐れがありましたので、横澤将監に状況を伝える役目を持たせたのだと思います。

そして現在のフィリピンであるルソン島に着いた頃、茂庭綱元は政宗公の五男の宗綱様の死を悼んで、高野山に行きました。常長はルソンで2年間留まるのですが、この間に細かな連絡をとれる所に綱元が居たのです。綱元も高野山に丸2年間いましたので、長崎まで行くことも出来たはずです。

長崎からはルソンまで船が出ていました。ルソンに着いた常長がその年に息子にあてた手紙を書いていますので、定期便があったのだと思います。

その後、常長が仙台に戻った年に、綱元も高野山から戻っています。この重なりが偶然とは思えません。現在仙台市の博物館に残されている、支倉常長がローマから持ち帰った品々の多さから、仙台藩内の港まで船で長崎経由で戻ったことと思われます。

この年には、五郎八姫様も江戸から仙台に移り住んでいます。
記録では、綱元と常長と五郎八姫様が仙台に来たことは、それぞれ説明されていますが、綱元は五月か六月頃高野山を出て、途中江戸の政宗公に会っています。この時五郎八姫様は江戸の下屋敷におりますので、綱元は立ち寄ることができます。そして、常長が仙台に帰る話しをしたとしたら、五郎八姫様はキリシタン信者でしたから、きっと常長に会って異国の話しを聞きたいと強く思ったに違いありません。
当時はキリシタン弾圧が江戸でも激しくなってきたところでしたので、政宗公も避難の意味も込めて、五郎八姫様の仙台行きを幕府に願い出たと史料にはありますが、本当のところは、五郎八姫様に強く願われて仙台行きを決めたのだと思います。このところは、私個人の考えです。

さて、支倉常長と茂庭綱元との関係はまだまだ続くのですが、今回はここまでとして、私個人の考えの史料にないお話しをします。

まず船の名前ですが、サンファンバウティスタ号という名前が付いたのがいつのことで、誰が名づけたか記録には見えませんが、伊達家の治家記録には、「黒船」としか書かれていません。私個人は「陸奥丸」と呼んだと思っています。
仙台は当時「陸奥の都」と有料ノートに書きましたが、五郎八姫様が呼んでいたようですのでそう思います。
私の研究の、仙台の六芒星は、当時は「むつ星」「六星」と呼んでいたと考えているからです。

また、船の建造に関してですが、幕府から船手奉行と船大工とを手配して建造していますが、当時幕府で建造した洋式の船は300トンクラスで、陸奥丸は500トンでしたので、ビスカイノが乗ってきたガレオン船と同じと考えると、嵐で壊れたビスカイノの船の部品をかなり使用したと思われます。

再現船と最も異なるのが、船尾の艤装の部分です。ローマで画かれた支倉常長の肖像の後ろに描かれた船と現在の再現船の船尾にはかなり違いがあります。船尾の手摺の柱の一本を見ても、肖像のものは丸く削られたデザインになっており、当時は絵の通りだったと思われます。
45日で仕上げた船ですから、ビスカイノの船から引用した部品を使ったものと思われます。

さらに、この船には大砲が二十四門装着されていたとあります。当然、仙台では大砲など作っておりませんので、幕府から提供されなければならないのですが、幕府から大砲を運んだという記録もありません。このことを考えても、ビスカイノの船から移したと考えるのが正しいと思います。

大砲には、砲弾と火薬が必要ですし、誰でも簡単に操作できるものではありません。その操作できるものを幕府が準備した記録もありません。
なぜ抜けた記録を残したのか、日本人のプライドだったのか、機密保持のためなのかはわかりません。
とにかく、500トンクラスの船を造ることは、当時の幕府にとってはまたとないチャンスだったことは確かです。

そう考えると、造船の場所に関しても、問題があります。それはまた次回お話しします。

今回も読んで下さりありがとうございました。感謝。


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