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#夜行バスに乗って 企画参加作品|

1牧野詩織
 春と風林火山号に乗って……と、ポスターには書いてあった。どういう意味だろう、と思っていたら、運転手さんの名前が乗合のりあいはるさんというらしい。それがわかったとき、私は運命めいたものを感じた。私の娘の名前は、春香はるかというのだ。春香のために、春さんの運転するバスに乗る。そんな偶然にあやかりたくなるほど、今の私は緊張している。
 空気の冷えた三月の夜、ターミナルには同じバスを待つ人々が並んでいる。学生らしい複数人の男女、ピンクのツインテールが艶々した美少女、くたびれた様子の中年男性……みんなどんな目的でこのバスに乗るのかはわからないけれど、私ほど切実な気持ちでここにいる者はいないと思う。うつむいて薄汚れたスニーカーを睨みながら、下唇を少し噛んで、鼻から息を吐き出す。黒いボストンバッグを抱える手に力をこめる。大丈夫。落ち着いてやれば、うまくいく。
 さっき、面会時間ギリギリまで春香のところにいた。小さな保育器の中でたくさんのチューブにつながれた春香は、来週大きな手術を控えている。あんな痩せた体で頑張っているんだ。私が支えてあげなければならない。春香の父親は、娘に生まれつき心臓の病気があるとわかった途端、消えた。ごめん、とだけラインがきて、それ以降は音信不通だ。わかっている、男なんてそんなもんだ。私が、自分の手で育てればいいだけのこと。それがどれほど大変だろうと、春香が私の宝であることにかわりはない。
 ぷしゅーっという音に顔をあげると、立派なバスがターミナルに入ってきた。夜行バスなんて何年振りだろう……と思ってから、高校の卒業旅行で乗ったことを思い出し、まだほんの三年しか経っていないと驚いた。この三年、いったい何が悪かったというのだろう。卒業してすぐ働き始めた地元の事務職で、あの男に会った。好きだと言われて、これが良い恋愛だと思った。春香を身籠って、産むまでの時間が一番幸せだったのかもしれない。なかなか入籍してくれない男、予定より早い出産、春香の病気、男の失踪、そして……今。
「お足元にお気をつけて、順番にお乗りください」
 アナウンスに従って列が進んでいく。暗くなりがちな思想を振り払ってやけに瀟洒なバスステップをあがると、車内は広々としていた。左右の窓側に一席ずつと中央に一席、ゆったりとした座席配置で、天井は高く、トイレもあるようだ。こんな豪華なバスなんて、この先一生乗れないかもしれない。もう少し楽しい用事で乗れれば良かったのに、と思ったが、今回のことをやり遂げれば、きっといつか元気になった春香と一緒に旅行に行ける。決意を新たに、ボストンバッグを抱え直して自分の座席を探した。
 座り心地の良いシートにもたれて、ふーっと息を吐く。このまま乗っていればいい。新宿までこの荷物を運べばいい。それだけで、春香の手術費より多くの報酬が手に入る。これがどれほど危険なことなのか考えだすと、徐々に心臓が飛び跳ねそうになる。それをなだめて、窓の外を眺める。ここ帳面のーと町に戻る頃には、この仕事がうまくいって、手術費を病院に持っていける。そうすれば、春香は元気になる。
 発車直前に、フードをかぶった男性が速足で乗り込んできた。慌ただしい人もいるものだ。後ろのほうの席からクチャクチャとガムを噛む音が聞こえる。他人の咀嚼音ほど不快なものはない。イヤホンを耳に入れ、スマートフォンで好きなミュージシャンのバラードを流す。目を閉じると、小さな体で頑張っている春香が瞼に浮かんだ。
 ――ママ、頑張るからね。
 
2葛城ケン
「ガム、クチャクチャすんじゃねえよ」
「あ、さーせん」
 俺は、通路を挟んだ隣からにらみつけてくるシンヤ先輩に謝ってから、口を閉じた。すげえイケメンだし、一見おとなしそうに見えるシンヤ先輩は、怒ると怖い。口を閉じたはいいが、クチャクチャさせずにガムを噛むのは難しいと気付いた俺は、ガムを口から出して前の座席のシートに張り付けた。上京っていう言葉に、少し浮かれているのかもしれない。俺は自分を落ち着かせようと無意識にジャンバーのポケットからガムを取り出しそうになって、ああやっぱりちょっとビビッているのかもしれない、と思った。
 シンヤ先輩はマジで天才だ。地元、帳面町では知らない人はいないくらいデカい家の息子で、金持ちで、頭もいいし、センスもある。シンヤ先輩と一緒にいれば、俺もマジで良い気分しかないし、金にも困らない。こんな最高な先輩はいない。
 しかも、最近はじめた動画配信「シンちゃんねる」がめちゃくちゃバズって、才能ある人って違うなって思う。そこに俺も一枚かんでるから、上京して一発当てるってときも、俺が指名されたってわけ。俺は、いつもシンヤ先輩にゴマすりしてるそこらへんのザコとは違うから、やっぱりシンヤ先輩も俺を選んでくれたんだろうなって思う。それなら浮ついてないで、ちょっと落ち着いているところ見せないと、シンヤ先輩をがっかりさせたら悪いし。
 シンヤ先輩の動画がバズったきっかけだって、俺が作ったようなもんだ。帳面町には、ちょっとボケたじーさんばーさんはそこらへんにいるから、俺がそのうちの一人を浅い川の真ん中まで連れていって、放置したんだ。当たり前だけど、ちゃんと流されないようにしたよ。配慮ってやつだろ。俺だってそれくらいはできるんだよ。バカじゃねえんだから。そんで、川で助けを求めるばーさんをシンヤ先輩が救出、俺がばっちり動画撮影して、優しくて親切な好青年スーパー配信者の爆誕よ。
 俺はちらりとシンヤ先輩を見る。こんな夜なのにサングラスをかけて、長めの前髪をおろして、シンちゃんねるの配信者だってバレないようにしているけど、窓の外に視線をやってる姿を見ると、神様は一人の人間にいくつも与えるんだな、と思う。なんつうか、いい顔しているんだ。憂いっていうんだろ、こういう顔。アンニュイだったかな。この前、動画のコメント欄に書いてあったんだ。シンヤ先輩にはファンがたくさんいる。
 とにかく、上京して「シンちゃんねる」をもっとうまくやれば、シンヤ先輩はもっと有名になるし、俺もうれしい。そのための新宿動画第一弾、うまく撮影しなきゃな。
 
3河野正志
 ぶるんと震えて走る車体に揺られながら、夜行バスなんてずいぶんと久しぶりだと思う。美幸と結婚する前には、よくこういったバスを利用してスキーに行った。でも、あの頃のものはもっと安くて、貧相なバスだったなと思い出す。乗り心地も悪かったが、美幸と一緒ならどこにいても楽しかった。結婚してからも変わらなかった。つつましいながらも温かく幸せな家庭。清花という最高にかわいい子宝にも恵まれて、私は本当に幸せだった。いや、今も、幸せだ。だって、最後に美幸と清花が住んでいる東京に行けるのだから。
 このバスはずいぶんと豪華だ。風林火山号という名前もいかにも仰々しい。でも、この時間の夜行バスがこれしか空いていなかった。もう二度と帳面町には戻らない。そう決めたからには、できる限り早く町を出たかった。
 昔と比べてずいぶんと座り心地の良いしっとりしたシートで、ボストンバッグを開ける。中から取り出したのは、家族のアルバムだ。私に残されているものは、もうこれしかない。妻と娘を戸籍から抜いて東京へ逃がした私の最後の持ち物。売れるものは全て売って、家も家財道具も、何もかも手放した。唯一、手放せなかったこのアルバムと身ひとつで、美幸と清花に会いに行く。そしたら、そのあとはどこかで静かに死ぬ。もう、それしか私に残された道はない。
 昔ながらの、現像した写真を貼るタイプのアルバムは、重くて持ち運ぶのは難儀だ。でも、これさえあればいつでも美幸と清花に会える。一ページめくると、産まれたばかりの清花がいた。思わず頬が緩む。ページをめくるごとに、清花が大きくなる。初めての立っち、初めてのあんよ、初めての動物園、水族館、泣き顔、笑顔……そして、五歳でその成長写真は途切れた。
そこに手紙がはさんである。つたない字で「おとうさん、だいすき」。私は目頭が熱くなるのをぐっとこらえる。二人を東京に逃がしてから三年……お父さんはもう限界だよ。
 
4牧野詩織
 バスの運行状況は問題ないようだ。渋滞もなく、予定通りに進んでいる。ということはそろそろか、とイヤホンをはずすと「まもなく、〇〇サービスエリアにて20分の休憩をいたします」と、ちょうど車内アナウンスが鳴った。穏やかで柔らかい声だ。運転手さんの人柄が声に出ている気がして、応援されているようで励まされる。
 ゆっくりと丁寧なブレーキでバスがサービスエリアに停まる。トイレは大丈夫だし、買い物もない。私はシートにもたれて、わらわらと降りていくほかの乗客を眺める。学生風に見えた若い男女が降りていく。みんな揃って眼鏡をしていて、それでも野暮ったい感じの子は誰もいなくて、私は思わずパーカーの袖を伸ばして荒れた手を隠す。そんなに年は変わらないと思うからこそ、青春が眩しい。その後ろから、クチャクチャと音が聞こえてちらりと見ると、少しガラの悪い若い男がボストンバッグを抱えて通路を出ていった。ずっとクチャクチャしていたのかな、と思うと、イヤホンを持ってきて本当に良かったと思った。長時間の移動は、同じ空間に閉じ込められる乗客によっては苦痛になりかねない。まだ23時か……とガラスにこつんと額をつけて寄り掛かる。
 このバッグを私に託した男は、Sと名乗った。一見すると怖い感じには見えず、保険の営業のような、爽やかさすら漂っていた。春香の手術でお金が必要になった私は、SNSで高額バイト情報を漁り、この仕事を見つけた。指定されたのは、帳面町の中で一番賑やかな繁華街の裏道にあって、それまで行ったこともないような暗いバーだった。
「中は見ないこと。バスタ新宿を出てすぐにある喫茶ヴァロンに行って、『帳面町のSからです』と言ってください。そうすれば、あなたの仕事は終わりです。相手の方から報酬が支払われます」
「わ、わかりました」
 Sの目は、震えがくるほどに冷たかった。
「復唱してもらえます?」
「あっ……はい。中は見ない。バスタ新宿を出てすぐの喫茶ヴァロンへ行く。帳面町のSからです、と伝える……です」
「よくできました」
 そういってSは、薄い唇を軽く歪めた。
 高額なバイトは、肉体労働か水商売がほとんどだった。肉体労働で稼げるほど体力に自信はない。水商売ができるほど器量も愛嬌もない。結局、こういう危ない橋を渡るしかなかった。
 Sの冷徹な視線を思い出し、思わず身震いをする。大丈夫、大丈夫。難しいことじゃない。ただ荷物を運ぶだけ。そう言い聞かせ、瞳を閉じた。
 
5葛城ケン
 ありがたいことに〇〇サービスエリアには喫煙所があった。俺は別にどこで吸ってもいいだろ、と思うんだけれど、シンヤ先輩がけっこう口うるさい。シンちゃんねるの好感度に響くと思っているのかもしれない。シンヤ先輩は、すげえ良い人で通ってる。なんたって地主の息子だし、金持ちだし、イケメンだし、頭いいし。でも、実はすげえやばい人って俺は思ってる。逆らわないほうがいい。そういう人ってたまにいる。
 俺が自分で考えた企画動画を勝手に投稿したときは、シンヤ先輩がマジでキレて、俺は死ぬかと思った。近所のラーメン屋で「カウンターにある薬味全部のせました」っていうノリみたいな企画だったんだけど、たしかに全然バズらなかったし、ウケもしなかったけど、動画見た瞬間のシンヤ先輩はおでこの血管ピキピキにして、すげえキレた。動画削除してからもガレージに呼び出されてボッコボコにされて久しぶりに鼻血でた。シンヤ先輩は人の歯を抜くのが趣味って噂聞いたことあったけど、あれマジだったのかもしんない。
 煙草を吸いながら、でもそう言ったって上京の相棒に俺を選んでくれたんだから、シンヤ先輩は優しいと思う。っつーか、俺が撮影とか動画の編集がうまいのかもしんないな。俺にも才能があるってこと? そういうことかもしんない。二本目の煙草をポーイと投げて、三本目に火をつけようとする。カチカチっと何度押しても、ライターはつかなかった。イライラして、バッグを足元に置き、手でライターを覆いながら何度も挑戦するが、つかない。
「っち」
 思わず舌打ちが出る。
「火、使いますか?」
 急に声をかけられて、びっくりした。振り向いたら、冴えないおっさんがいた。ライターを差し出してくれている。
「ああ、すんません」
 俺が煙草をくわえると、おっさんはバッグを足元に置いて火をつけてくれた。
「うっす」
 一応頭をさげる。
「風林火山号で一緒の方ですか?」
「ああ、まあ、そうっす」
「東京って、いい響きですよね」
 話しかけられてめんどくせえって思ったけど、ライター貸してくれたし、東京がいい響きなのがわかるから「そうっすね」と返事をしておく。
そのとき「ワーッショ!」とデカいくしゃみが聞こえた。
「すごいくしゃみですねえ」
 おっさんがちょっと笑いながら話す。
「ああ、そうっすね」
「あんなに大きな声でくしゃみができたら、さぞかし気持ちいいでしょうね……」
 俺は首をかしげた。くしゃみぐらい、デカい声ですりゃいいじゃねえか。ださいおっさんは、くしゃみもうざがられるのかもしんねえな、とちょっと笑いそうになった。あー、かっこわるいおっさんにはなりたくねえなあ。
「じゃあ……お先です」
 おっさんは煙草を一本吸い終えると、大事そうにバッグを抱えて喫煙所を離れていった。その猫背はなんだか寂しそうで、こういうのを哀愁っていうんじゃねえの? と俺は賢くなった気でいた。
 
6河野正志
 喫煙所にいた青年は、ずいぶんと尖って見えた。あんな風に、若々しさを持て余し、エネルギーが充満し、自分の全てが何かの武器になるような年齢が、私にもかつてあった気がする。そして、そのそばにはいつも美幸がいてくれた。知人の借金の保証人になったときも、その知人が逃げたときも、美幸は私を責めなかった。何をしても返済の目処が立たず、離婚を申し出たときも、美幸はしばらく渋った。でも、清花のためだ、と私はなかば強引に説得し、判を押させた。これで良かった。そう思っている。
 少し寝よう。ボストンバッグを足元に置き、私はシートにもたれた。明日には、美幸と清花に会える。
 
7牧野詩織
 ハッと目が覚めた瞬間、自分が寝てしまっていたことに気付いて、ぞっと背中に冷や汗が流れる。抱えたままのボストンバッグがあることを確認し、ほっと息を吐いた。スマートフォンを見ると、もうすぐ一時半。窓の外は真っ暗で、どのあたりを走っているのかわからない。首を左右に倒す。座り心地の良いシートだけれど、さすがに少し疲れてきた。次のサービスエリアで体を伸ばそうと思った。
「まもなく、△△サービスエリアに停まります。20分の休憩をいたします」
 寝ている人を起こさないような配慮のされた小さなアナウンスだった。そして、ゆっくりバスが停まる。またも、わらわらと乗客たちが降りていく。私は数分待って車内が落ち着いてから、バッグを抱えたまま通路へ出て、出入口まで進む。
 その途中、ガタンと大きな音がした。ふと音のほうを見ると、フードを目深にかぶった男が何かを拾おうとかがんでいた。その手の先に見えたのは、あれは……拳銃?
 まさかそんなものがあるはずがない、とじっと立ちすくんだとき、どんと正面から衝撃を感じた。その弾みでバッグを落としてしまう。
「ぼさっとしてんじゃねえよ」
「あっ、すいません」
 正面からぶつかってきたのは、ガムをクチャクチャしていた男だった。男は、自分からぶつかってきたくせに落とした荷物をふんだくるように拾って席へ戻っていった。そして煙草らしき箱を持ってまた通路を歩いてくる。私は、またぶつかられたらたまらない、と思って、慌てて荷物を拾ってバスを出た。
 夜中のサービスエリアはひんやりとして気持ち良い。私はベンチに座り、バッグを膝に載せ、両手を思い切り伸ばした。空は薄く曇っていて、星は見えない。あと四時間。この空が明るくなる頃には、新宿に着くはずだ。
 
8河野正志
「お客様、着きましたよ」
 そう声をかけられて目を覚ますと、もうバスタ新宿に着いていた。外はすっかり明るい。
「ああ、すいません」
 私は運転手さんにお礼を言って、慌ててバスを降りた。ほかの乗客はもういない。最後まで一人で寝てしまっていたようだ。借金とりに監視されずに眠ったのは久しぶりだったからか……これから死のうという人間がこんなに健全に熟睡してしまうなんて、皮肉なものだな、と思わず苦笑してしまう。
 新宿には、まだ朝の6時だというのに人がたくさんいた。ふと見ると、パトカーが停まっていた。東京は朝から物騒だな、と思いながら美幸と清花のいるマンション方面へ歩き出す。
 そのとき、何か違和感を覚えた。荷物が、少し軽い。まさか、寝ている間に何か盗まれたか! 私は人々が行き交う歩道に荷物を降ろし、急いでファスナーを開けた。
「うわあ……」
 何が起こったのかわからず、尻もちをつく。東京は寛大だ。朝の6時に歩道で声をあげながら尻もちをつく中年の男を、ほっといてくれる。私は、おそるおそる体を起こし、もう一度バッグの中身を確かめる。そこには、百万円の札束が、いち、に、さん……10個。一千万円だ。
「ど……どういうことだ」
 いったい何があった。私の家族アルバムはどこだ。あれはお金で買えるものじゃないんだ。一千万円あったって、あのアルバムの価値は……。
 ――いや、本当にそうか? 思い出はこの胸にある。初めての立っち、初めてのあんよ。全部しっかり覚えている。それよりも、このお金があれば、また一から美幸と清花とやり直せるじゃないか! 借金を返済し、それでまた家族と暮らせる。そうだ。私は死ななくていいじゃないか! これはきっと、神様からの思し召しだ。ありがとうございます。ありがとうございます。
「ありがとうございます!!」
 大きな声を出しても、涙を流しても、みんな気にせずに歩いている。東京は本当に、寛大だ。私はスキップをしそうな勢いで、妻と娘の待つマンションへ走った。朝日がきらきらしていて眩しい。
 
9牧野詩織
「喫茶ヴァロン、喫茶ヴァロン」
 ぼそぼそと口に出しながら待ち合わせ場所を探す。
「あった……」
 そこは、昔ながらの純喫茶といった感じの、趣ある店だった。まだ開店していないが、Sに言われたとおり店内に入る。カランコロンとドアベルが鳴る。
 喫茶店のおしゃれなレトロさににつかわしくない、いかつい男がカウンターの中にいた。
「お客さん、まだやってませんよ」
 五十代か、六十代くらいだろうか。いかにも危ない仕事をしていそうな、任侠ものの映画にでてきそうな親分みたいに見えた。
「あっ……あの、えっと」
 私は荷物をぎゅっと抱えながら一つ大きく息を吐く。
「帳面町のSからです!」
 その言葉に、男の眉がぴくりと動いた。
「ああ、ずいぶんとかわいらしいお嬢ちゃんが運び屋さんだこと」
 男はふっと笑って「まあ、たしかに、これなら怪しまれねえなあ」と言った。そして、おいっとカウンターから奥の厨房のほうへ声をかける。若い男が出てきた。
「Sからのブツだ。確認しろ」
「はい!」
 若い男が私に近づいてくる。私は、そっとバッグを渡した。男はそれをカウンターへ持っていく。親分肌の男がボストンバッグのファスナーを開ける。
「はあ? なんじゃこりゃ」
 親分のすっとんきょうな声が響く。私は、びくりと体を震わせた。
「なんっすか、それ」
 若い男もバッグをのぞきこむ。
「お嬢さん、これ、中身見たかい?」
 私は、もげそうなほどぶんぶんと首を振った。男がバッグから取り出したのは、古い大きなアルバムだった。
「それ、親分っすか?」
 若い男が話かける。親分は、アルバムをゆっくりめくっている。
「いや、俺じゃあない……でも」
 そういったとき、一枚の紙がはらりと床に落ちた。私の足元で止まる。そこには「おとうさん、だいすき」と書いてあった。
「おとうさん、だいすき……か」
 親分はふっと息を吐いて、眉をハの字にした。
「Sの野郎、俺の足を洗わせたがっているということか……」
 私は何のことかまるで見当がつかないまま、立ち尽くした。
「おい、Sに規定の報酬を振り込め」
「え! けど、ブツは……」
「いいんだ。それで、これを最後に俺は取引から足を洗う」
「どういうことっすか!」
「どうもこうもねえ。Sにもそう言っておけ」
「はい!」
 若い男が厨房のほうへ走って行く。
「お嬢さん」
 親分に手招きされた。私はおそるおそるカウンターへ近寄る。
「これが報酬だ」
 受け取った封筒は、想像以上に分厚かった。ちらっと中をのぞくと、百万円の束が三つも入っている。
「俺みたいな仕事をしていた奴に言われたくないかもしれないが、お嬢さん、もうこんな危ないアルバイトには手を出さないほうがいい」
「……え?」
「何か事情があったんだろう。でも、こういう世界は、一度入るとなかなか出られない。今回が初めてなら、もう終わりにしなさい。地元に帰って、家族とゆっくりしなさい」
 最初からそのつもりだった。早く春香のところへ帰りたい。
「はい……ありがとうございました」
 私は頭を下げて店を出た。ずっとボストンバッグを抱えていたから、肩がガチガチにこっている。お金をリュックにしまって、私は軽やかに足を踏み出した。はやく春香の待っている帳面町へ帰ろう。朝の東京はきらきらしていて清々しい。
 
10葛城ケン
「いいか、わかってるな? 失敗すんじゃねえぞ」
 シンヤ先輩は真顔だ。わかってる。これが東京の動画一発目。「新宿で大金拾っちゃいました」だ。バッグの中身は、シンヤ先輩のポケットマネーで一千万。それを拾ったと見せかけて、警察署に届けるまでが動画だ。大金拾ってもちゃんと届ける紳士配信者。持ち主は現れるわけがない。だって、そもそもシンヤ先輩の金なんだから。全部戻ってこなくても、シンヤ先輩は実家が太いから問題ない。それより、この動画をなんとかバズらせて、シンちゃんねるの東京スタートダッシュを決めなきゃだ。
「まかせてくださいよ。あそこに置いてきますから、シンヤ先輩拾ってくださいよ」
「俺に指図すんじゃねえ」
 耳をひねられて千切れるかと思った。
「すんません、すんません、すんません」
「わかりゃいい。早く行け」
 俺は、バスタ新宿を出てすぐ、なるべく目立たないところにバッグを置いた。急いで置いて、ササっと引き返す。スマートフォンを構えて、サングラスをはずしたシンヤ先輩にキューを出す。動画開始だ。
「あれ……なんかでかいバッグある。なんだろう」
 シンヤ先輩は、配信用の優しい声色を出す。
「何これ、けっこう重い。ちょっと開けてみるね」
 俺が今置いたばかりのバッグを、シンヤ先輩は初めて見たかのように不思議そうに眺めている。さすが、やっぱりシンヤ先輩は天才だ。演技力もある。誰もこれがヤラセだなんて気付かない。シンヤ先輩は、ちょっと肩をすくめて口をとがらせてかわいい顔をしながら、ジーっとバッグのファスナーを開ける。俺は、バッグいっぱいの大金を撮影するため、スマホをぐっと寄せる。ファスナーが開いて、ゆっくり中身が見える。
「えっ……」
 シンヤ先輩から、しゃっくりみたいな声が聞こえた。
「んぐう」
 俺からは、喉がつまったような変な音が出た。
「……何、これ」
 バッグの中には、見たこともない袋が入っていた。透明の袋がみっちりとたくさん、その中には、白い粉……。
「君たち、ちょっといいかなあ?」
 突然の声に、二人そろって飛び上がった。
「そのバッグ、見せてもらっていい?」
 ぎぎぎぎぎと壊れたメカのようにぎこちなく振り返ると、ガタイのいい制服姿のおまわりさんがいた。優しい声をしているけれど、明らかに俺たちを怪しんでいる。
「あ……おまわりさん、今これそこで拾ったんですけど」
 シンヤ先輩が少し声を裏返させながら言う。非常事態にも、さすがシンヤ先輩だ。でもおまわりさんは「そっちの君がさっきそこに置いて、それを君が取りに行った。最初から見ていたんだけど、どういうことか説明してもらえる?」
 にこやかに見えるおまわりさんの目は、キレたときのシンヤ先輩どころじゃなく怖くて、俺の体を凍り付かせた。
「お前……どういうことだよ」
 シンヤ先輩がぼそりと言う。
「や、いや、俺にはさっぱり、何がなんだか!」
「てめえ……」
「いや、だから、俺はちゃんと!!」
「はいはい。お兄さんたち、ここじゃ人が多いし、ちょっと署でお話聞かせてねえ」
 いつの間にか複数人集まった警察官に囲まれる。
「はい。じゃ、そのスマートフォンも切ってね」
 そう言われて、俺は、動画の撮影を止めた。そこで気付いた。
「シンヤ先輩、すんません。撮影じゃなくて、生配信になってました」
 みるみるうちにピキピキとおでこに血管を浮かび上がらせるシンヤ先輩と一緒に、俺はパトカーに乗せられた。しゃれた服を着た通勤の人々が俺らを見ている。憧れの東京が、俺らを拒絶していた。
 春の東京は、まだまだ寒い。
 

おわり

#夜行バスに乗って

下記企画参加作品です。
豆島さん、おもしろい企画をありがとうございました。長くなりました、すみません💦
ほかの方の作品の登場人物を少し出演させております。お断りよ! という方は言ってください。修正いたします。よろしくお願いいたします。


おもしろいと思っていただけましたら、サポートしていただけると、ますますやる気が出ます!