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連作短編|揺られて(後編)❽|麻里

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まさか支店長宅にまで押し入ってくるなんて、お見合いはぶち壊しにされたと諦めかけた。

あきらくんは、勢いよく入ってきたが、支店長の娘さんに出ていくように言われたらすんなり帰ってくれた。何だったのだろう。驚きすぎて全身の力が抜けてしまい座り込んでしまった。

あきらくんとの長い付き合いを説明はしたが、別れた理由であるマッチングアプリでのママ活のことは言えなかった。深く詮索もされずにほっとしている。

支店長の奥様の手料理もワインもとても美味しくて、これからお付き合いする矢田さんもいい人みたいだし、やはり今日は来てよかったんだと自分に言い聞かせた。

あきらくんとは二度と会うことはない。
そう強く心に決めた。

矢田さんは職場での印象とは異なり饒舌だったし、とても優しい感じの人だった。もっと冷たい人だとずっと思っていたから意外だった。

「今度、うちに来ませんか?」

自宅に誘われたのは付き合い出して間もなくのこと。あきらくんのことを早く忘れたかったし、早く結婚もしたかったから、焦っていたのかもしれない。

遅かれ早かれこの日はやってくる。
今さら恥ずかしがることもない。支店長宅であんな醜態を晒してしまったのだから。

矢田さんの家に通うようになり、ほぼ半同棲のようになっていたある日、

「僕と結婚してください」

よくテレビで目にする指輪のケースをぱかっと開ける、あのシーンが今自分の身に起こっているが、なんだかピンとこなくて、

「はぁ……」

と、気のない声を出してしまったがすぐに正気に戻り、過去のこと、未来のことが頭の中でぐるぐる回り、物凄いスピードで思考が働いたが、断る理由は見当たらない。結婚して家庭を持ち幸せに暮らす。そんな当たり前のことなんだ。

「はい」

幸せになりたい

仕事は続けたい気持ちを伝えると、彼はいいよと言ってくれた。ご義両親への挨拶のときは緊張したけれど、お二人ともやさしく迎え入れてくださった。

慣れた仕事にも張りがでてきて毎日が楽しい。結婚のことはいつの間にか職場に知れ渡っていて、皆とオープンに話すようになった。支店長が仲人だし、同僚たちを結婚披露宴に招待することにもなる。

毎週末の休日は結婚式の準備で忙しかった。あきらくんとの結婚を考えていた頃は、簡素でいいからと思っていた結婚式や披露宴も、相手やその家族が違えば自分の気持ちもどんどん変化していく。

格式高い結婚式場、試食をした料理は最上料金のコースに決めた。ドレスも料金が上がるほどレースがふんだんと使われていて、布も上品な光沢があり美しい。着比べてしまうと予算のことなどはどうでもよくなり、いいと思ったものを選んでいってしまう。

披露宴のテーブルクロスの色から、花の種類、使用する音楽まで、決めなくてはならないことが山のようにあったが、苦にはならなかった。

彼の家に寝泊まりすることも、料理、掃除も当たり前になっていた。この日は余っている有給休暇を取り、掃除をしていると、開きっぱなしのノートパソコンのマウスに触れた。するとモニターにトップ画面が現れた。

電源は入れっぱなしだし、パスワードも設定していないなんて不用心ね…

その画面を見ると、中央に置かれたフォルダーに『麻里』と名前がつけられている。

まめな人だわ。結婚式の準備をまとめているのね……

フォルダーを開くと、Wordデータが一件入っていただけだった。このデータ名も『麻里』だ。

覗き見るつもりはなかったが、データ名が『麻里』だもの。見る権利はあるとアイコンをクリックしたが、慌ててデータを閉じた。



目の前の画面を見て全身が凍りつき、思考回路は停止した。急に吐き気に襲われ、トイレへ駆け込み嘔吐していると、そこへ彼が帰宅した。

「大丈夫?! それもしかして…… 」

昨日まで優しく感じていたてのひらとげとなって背中を擦る。

「仕事は辞めてもらうよ」

「え……」

吐き気の苦しさと、突然沸き上がった不安で涙が溢れ出て、冷たい便器を抱えながら吐き続けた。

後編❾最終話へつづく


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