連作短編|揺られて(前編)①|貴也
「いってらっしゃい」
朝の見送りが習慣になっている妻は、いつもと変わらず美しい。頬がほんのり赤いのは昨夜の余韻か。
妻は朝食の用意をする前には、ブラウスとスカートに着替え髪を整え薄化粧をする。当たり前だと思っていたそれは、他所の家では違うようだ。
白くきめの細かい肌、ほっそりした腰つき、艶やかな黒髪は、とても二十歳の子がいるようには見えない。
銀行頭取のひとり娘である妻は働いたことがない。それは義母も同じで女は若いうちに嫁いで男に養ってもらうのが当然と生きてきた女たちだ。
社会に揉まれ生きている女たちとは違い人生にゆとりをもち、生まれながらの美しさを保つことには相当な時間をかけてきたはずだ。
昨夜もその白く細い首筋に触れると、その手は肌に吸いついて離すことができず、そのまま身体中に滑らせていった。妻は静かに身体を開きそれを受け入れた。
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この家に住んで二十年が過ぎた。交通便の良い駅前のこの土地は、義父が取り引き先の不動産屋に探させた物件で、結婚が決まると新居の建築に向けて打ち合わせが忙しくなった。
あの頃はとにかく無我夢中で、頭取のひとり娘が自分の妻になることの喜びと、ひとつの失敗も許されないプレッシャーで毎日が緊張だった。
通勤時、人の波に飲み込まれてゆく様子は、まるで自分の人生のようだ。いつのまにか波に乗り、ただ浮かんでいるだけで、そこに自分の意志はない。
また一週間が始まることに何の感情もなくなっていた。
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改札口を抜けると、エスカレータ脇のスペースへ向かう。
ここなら人の流れが止まらない。スマートフォンを持ちながら歩いている人間ばかりで目立つこともない。
この場所で鞄からスマートフォンを取り出しLINEを確認する習慣は半年ほど続いている。
─ 土日さみしかったよぉ
─ 俺もだよ 今夜いつもの店で
─ 待ってる
彩乃とは高級クラブで知り合った。アルバイト店員と客のよくある関係だ。
こちらからアプローチはしていない。まさか親子ほども歳が違う彼女から言い寄ってくるとは思いもしなかった。
取引先の担当者に接待で連れいかれた店だが、席についた時からお互いの膝が触れるほど近づいてきて、太腿の上に手を置かれた。わざとチラつかせる胸の谷間へはどうしても目がいってしまった。
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実家からの少ない仕送りで、高級クラブでアルバイトをしている女子大生との逢瀬という沼からは、金銭目的だとわかっていながらも抜けることができず、その裸体にむしゃぶりつき、都度、金を渡してきた。
美しい静かな妻とは違う、若い激しい体だ。
自分はどうかしている……
わかってはいるが、連絡を待っているのは自分の方だ。
凍てつく朝の寒さに反し、身体は熱くなっていった。
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