【うつ病エッセイ】「うつ病は治りかけが危ない」というのは本当なのか
うつ病は治りかけが危ない──うつ病が重いときには行動にうつせなかったことが、治り始めるにつれて実際に動けるようになり、とくに自死に気をつけなくてはいけない、ということをよく言われる。
この言葉を最初に言ったのは誰なのだろうか。
医者?
学者?
当事者なのだろうか?
そもそもそんなこと、あるのだろうか。
おそらく、おそらく合っていると思う。
わたしにはそれが今だという瞬間があった。
うつ病ドン底時代、泣きながら消えたいと思っていた記憶が、わたしには鮮明に残っている。行動にうつすことはなかった。
「消えたい」そう思ったのは、確かにわたしだということを覚えていて思い出す。
わたしにとって、消えたいと思っていたことはいつもとは違う状態であり、うつの状態だっと言える。
そのときはふとした瞬間にやってきた。
とても頭がクリアだった。
頭だけじゃない、なんだか視界とか景色なんかもまっすぐに見える。
わたしと消えたいという思いが、あまりに鮮明に、一直線につながっているのがわかる。
「そうだ、わたし消えたかったんだ」と思っている。思い出したという感覚。
そして今この瞬間、身体が元気だ。
なんでもできる気がする。
こういう選択をしてしまうとき、悩んで、苦しんで、残された家族が悲しむ姿とか、命をかけることなのかという問答、いろんなことをひっくるめて大きな天秤にかけ、何度も何時間も何日も悩むものだと思っていた。
でもちがう、と思った。
今、そんなこと何も考えていない。
ここが屋上のようなところなら足を出せるし、簡単なことならできる。
そんな気がした。
「そうしたい」というより「そうしようかな」に近いかもしれない。
軽い。
この状態が初めてで戸惑っている。
でも、「できる」と思っている。
たぶんよく言われているあれなんでしょう?
これなんでしょう?
このとき不思議と客観的で、確かに今、その感覚なんだけど、どこかでこれはあれなんだとかアレコレと思っている。
うつ病は治りかけが危ない──
この言葉を最初に言ったのは
やはり、当事者だろうか?
たぶん今死ぬことはない。
うつ病こわすぎでしょ…
と思っている自分がいる。
そしてもう一つ思ったことがあった。
実行した人はこの感覚をみんな通ったのだろうか。
うつ病になって苦しんで、そこから時間をかけてやっと回復して、クリアになったその頭で、この感覚になったのだろうか。
自分と思いを結びつけたのだろうか。
そのことがたまらなく悲しかった。
そしてこわかった。
今はしないけど、この先また同じ状況になったときに、わたしは客観的でいられるのだろうか。
どうしたらいいのだろうか。
そもそもわたしは望んでいるのだろうか。わからない。
そんなことを考えた。
これはわたしが初めて体感したときの感覚です。
この感覚をその後も何度か経験しています。
その度に「ああこれか」と思い、以前の感覚とくらべています。
もしかしたら、これにも程度があってわたしのように客観的に考えられたということは軽い状態なのかもしれません。
重いときはこの感覚に支配されてしまうのかな…と思ったり。
だとしたらとてもこわいです。
でも治りかけは危ないという知識があったから「これなのかも?」と思えたはずです。知らなかったら軽い状態でも支配されていたかもしれない。
なので、書きました。
うつ病は誰でもなるものだからこそ。
いつかのわたしと、誰かに届けば、と思っています。
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