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昔から二項対立が苦手な私は、いま

世の中が分断している、ように感じる。

男性VS女性

自粛する派VSしない派

ワクチン打つ派VS打たない派

もちろん私だってスタンスはある。上記のアジェンダで言うと、例の発言はすごく腹立たしいし、もともとの生い立ちや2018年の東京医大の女子減点問題などもあって、自分はフェミニストだという自覚は昔からある。

自粛については、いまシンガポールにいて日本と状況が違うというのはあるが、友達に飲み会に誘われたら絶対に行くし、ワクチンはすぐにでも打ちたい。

しかし、そういう自分のスタンスは抜きにして、二項対立の渦中にいることの居心地の悪さたるやこの上ないのが最近。

この状況、なんとなくデジャヴ...とふと思い出したのが、昔から自分には直接関係なくても、友達同士が喧嘩している状況は、すごく居心地がわるかったということ。

良い子ぶりたいのでもなんでもない、できたらこんなめんどくさい自分はやめたい。事実今もTwitterを開くのがこわい。一方で自分がTwitterをするかしないかなんて世の中の塵よりも些末な問題だとわかっている。

昔から友達同士の喧嘩にすらビビってた私は

二項対立のどちらかに大手を振って加勢することはできないし

だからといって二項対立をまとめあげて建設的な案を出すほどの力量もない。

何もできない、ただただ無力。

そして、二項対立が悪!こんな争いやめてくれ、ということを主張したいのでもない。むしろ、必要なものだと思う。

今の平和だって(数年前ほど今の世の中は平和、とは言い難くなってるけど...)、まさに血と涙の二項対立ともいえる過去の宗教戦争や領土争いなど、今のソーシャル上の対立よりもっと犠牲を払ったものの上に成り立ったもの。そういう歴史も鑑みて、二項対立の中で声を上げられる人を心底尊敬している。

だからこそ、声も上げられず、傍観することすらままならない自分が無力で仕方がない。

ただ一つ、救いとなっているのはSNSがあるからこそ、「私は声を上げられない、でも二項対立が続くのも居心地が良くない、無力な人間です」という声を上げられることなのである。

こんな声を上げたからと言って、何が起こるかはわからない。というか、何も起こらない気がする。

でも、世の中の雰囲気を1nmだけでも若干心なしか良いかんじにすることは、できないかな。無理かな〜〜

友達の喧嘩を横で見ていたとき、世界中がみんな私ならノーベル平和賞なのに、と思ったことがあった。でも、そんなわけは絶対になかった。多様性があるからこそ真の平和がもたらされる。たぶん。

二項対立にこそ多様性が必要、な気がする。わからないけど。そんな一縷の思いを託して、多様性の一環として声にもならない声を上げてみる、というかそんな勇気もないから、こっそり書きなぐる。いつかのノーベル平和賞を、夢見ながら。


ご覧いただきありがとうございます!調子の良い不器用な人間が、自分の言葉で生きることだけは続けようと書き綴っています。素直さだけが取り柄なので単刀直入に、サポートいただければすっごく嬉しいです!