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メタバース・クリエイティブ・ノオト(7)

 「メタバースには制限などないから好きなようにすれば良い」という意見があり確かにその通りだと思います。上下逆転していたり、三次元が捻れていたり……ただ気をつけるべきは、その意見は表面的なビジュアルの世界と、その裏にある地勢の世界の話を混同していることが多々あるように思われ、あっさりとその意見に組みしたくはありません。
 さらに安易にその言葉に組みしたくない理由があります。そのキーワードは共通感覚です。
 中村雄一郎さんの「共通感覚論」にこれまでの哲学的な議論や論点がまとめられていますが、私たちは近代以降視覚優先主義に陥り、私たちが本来持っている多様な感覚に、場合により蓋をしているようです。
 例えば空気の動き(振動と言っても良いかと思います)に私たちは生きていると絶えず感じているはずです。風であったり、光や色(光や色もまた振動です)であったり、友達と共有するカフェに鳴るBGM(音も振動です)であったり……。私たち人間が作り出すリアリティには、必ずそうした振動が存在します。
 自然界ではなくVRの世界で何かをクリエイトする時に、視覚優先主義に陥っていると、そうした空気の動きをともすれば気づくことなく、横に置いたり無視している場合が多々あるような気がしています。
 いつまでたっても、近代の視覚優先主義に囚われ(フーコー的には囚人ですね)たクリエイティブであり続ける限り、せっかくのVRの世界観は台無しになり、囚人の囚人による囚人のためのVRの世界でしかないように思います。人間によるリアリティはいつまでたっても昨日と同じような監獄に囚われているわけですね。
 VRの世界に、クリエイティブとして関わる人々には、その監獄から人間を解き放って欲しいと願ってもいます。VRの世界で感じた感覚が、やがて現実の世界の歪みを問えるようなものであればなとも願っています。
 さて作庭師の世界観の話です。
 これまで、あちらこちらで語ってきましたが、禅庭の表面的な造作は、作庭師にとっては二段階目の話で、先ずはその地が孕む地勢を読み取る作業が大切です。風や光や水や季節や……。いわゆる自然が作り出した造形があり、その造形が作り出す世界を全感覚で持ってして読む作業が先ずあるのだと思います。その作業には、先に話した視覚優先主義のペラペラな感覚ではなく、全感覚を持ってして挑むことになります。
 VRの世界では、そうした自然が作り出す造形などは元々存在せず、x軸y軸z軸という三次元の空間だけが存在します。ただ、そこに表面的なだけの造作、しかも視覚優先主義に陥った造作を施しても、恐らくペラペラな造形しか生まれないように思います。何故なら、VRの世界を体験している人間自体が(視覚優先主義の時代にあるとはいえ)、そもそも全感覚的な生物だからです。というか、生物とはそもそも全感覚的なものですから。
 さて、VRの世界での作庭師とは?
 その基本となる共通感覚論について、次回は確認したいと思います。中嶋雷太

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