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メタバース・クリエイティブ・ノオト(3)

 生まれてから25歳頃まで生活した京都太秦の実家や通った学校近くにはお寺が数多くあり…天龍寺、広隆寺、建仁寺、妙心寺や相国寺…などの情景が日常生活に溶け込んでいました。禅寺のお庭(禅庭)は、中に入らねば見られませんでしたが、とても身近なものとしてとらえていたと思います。好き嫌いは別として、私の無意識の情景を形作っていたはずです。
 その無意識の情景をつらつら考えると、物としてとらえていたのではなく、生きていく感情の起伏に寄り添った情感でとらえていたようです。
 人は物象化してそうした風景をとらえたり語り(評論し)がちで、とてもたいせつなはずの情感を切り捨てたり、情感を語る為の誰かの言葉を使い、情感さえ物象化しがちです。
 さて、禅庭に話を戻しますが、この禅庭を作る側(作庭師)から禅庭(作品)を考えるとどうなのかを考えます。禅庭に面した廊下で佇みながら、心を解いて禅庭の世界観に溶け込もうとする人(観客)がいて、その人は情感で何かを掴み取ります。
 この人の情感に何を訴えるのかを作庭師として考えたとき、禅庭に岩や砂利や樹木をどうやって配置すれば良いかでは、何も訴えてられないでしょう。岩や砂利や樹木をただただ物として扱うだけとあう物象化した考えだけでは難しいはずです。そこに流れ入る風や光や音(振動)…その禅庭の表面の下にある、地勢の面白さを生かさないと、ハリボテで物象化された単なる庭にしかなりません。凸凹した自然の地勢が、風や光や音の複雑で生き生きとした流れを作るはずです。中には、その地勢を削ったり足したりする作庭師もいるでしょうが、その作庭師が素晴らしい感覚を持っていれば、自然の地勢をさらに生かすことになると思います。
 この地勢の面白さを偶然生かした魅力的な街というのも数多くあります。例えば、東京。この起伏に富んだ地勢に超高層ビルから下町のアパートまで、凸凹しつつ、多様な風や光や音が交差し複雑な動きを見せます。東京は欲望を象徴する禅庭のようなものなのかもしれません。
 さて、ようやくメタバースの世界の話ですが、x軸、y軸とz軸で成り立つ三次元の世界観に、全面にプラスチック・コーティングされたような世界だとすると、そこに存在する人(観客)は、徹底的に物象化された世界観のなかで疲れ果てるだろうと思います。もちろん、コンピューターで設計された世界だから、仕方がないということもできるでしょうが、そこに地勢を自ら作れば、多様な情感の世界を作ることも可能だと思っています。無意識に訴え、無意識の情景を楽しむ……それのひとつの手がかりとして、私は禅庭の作庭師のあり方にヒントが隠されていると考えています。次回は、有名な作庭師のひとり、夢窓疎石について、綴る予定です。中嶋雷太

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