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「乾杯」が嫌いな私を変えた輝く夏の「Cincin!」

私は乾杯が嫌いだった。それは生まれて初めて参加した飲み会でのできごと。飲みたくもないビールを「乾杯の時ぐらいは…」とつがれ、誰かの大きな「乾杯」の声とグラスのぶつかり合う鈍い音に居心地の悪さを感じた。長々と続く愚痴を中心とする不毛な会話にひたすら耐えた。

そんな私の「乾杯」嫌いを変えたのはパリでの「Cincin!」。フランスで乾杯の時に使われる言葉「Cincin!」のリズミカルな発音とグラスがぶつかる音が合わさり心地よく響く。夏の日差しみたいな金色のビールとみんなの笑顔がはじけた乾杯。あの日私は乾杯が大好きになった。

グラス半分でゆでだこのようになる私

私はお酒が飲めない。生まれつきアルコールを受け付けない体質らしくグラス半分のビールでゆでだこのように顔が真っ赤になる。頭が痛くなり動悸がはげしくなる。楽しく飲んでる友人たちを引かせるぐらい病的なほどに。

20歳の誕生日を迎えてすぐ、初めて飲み会なるものについていった。お店の壁にはグラビアアイドルのビキニ姿のポスターが張ってあった。メニューに揚げ物が多いせいか店内の床は油でべたべたしていた。なぜかトイレには相田みつをの詩が掲げられていた。

飲めないから、と断る私に友人たちは「飲んでるうちに強くなるよ」とか、「乾杯くらいは…」とかなんの根拠もない言葉を発し、強引に瓶ビールをグラスについだ。馬鹿みたいに大きな「乾杯」の掛け声で飲み会はスタートした。

一口、二口飲んだだけで体が熱くなり頭がガンガンする。友人たちはゆでだこのように真っ赤な顔の私を見てお酒を勧めなくなる。みんなほんのり上気した顔でつまらない話に大笑いしていた。注文した料理は油っこく塩辛かった。お酒のせいだけではなく胸がむかむかした。エンドレスに続く意味のない会話を聞いている時間は永遠かと思うほど長かった。

やっとお開きとなり外に出ると私たちと同じような大学生風の女の子が道路に屈んでいた。その背中を連れの男の子が一生懸命さすっている。どうやら酒に酔いつぶれて吐きそうになってるらしい。ミニスカートがめくれあがってパンツがみえそうだ。その横を耳が痛くなるほど大きな声でバカ騒ぎしているサラリーマン風の人々が通り過ぎる。

どうして人はこんな醜態をさらしてまでお酒を飲むのだろう。楽しいから?忘れてしまいたい何かがあるから?若くて偏屈だった私は酔って騒いでくだを巻く生産性のない飲み会が、そして「乾杯」が大嫌いになっていた。

それ以来私はどんなに勧められてもアルコールを飲まず、ソフトドリンクで通した。あいまいな笑みを浮かべながら一人しらふでバカ騒ぎする人たちを眺めた。やがて全ての飲み会を断るようになり私の日常から「乾杯」は消えた。

「乾杯」もいいものかもしれない

「乾杯」もいいものかもしれないと思うようになったのは、いつかの職場の飲み会。めったに飲み会に参加することのなかった私だが、その時はだれかの送別会で半ば強制的に参加させられた。

私が初めて行った居酒屋はバイトが冷凍食品を解凍して揚げて出したような料理ばかりの格安チェーンだった。しかしその時行ったのは新鮮な材料で丁寧に調理した料理を出す雰囲気のよい大人の居酒屋。冷凍ではない枝豆やどこかの港から直送された見るからに新鮮そうなお刺身。キムチの乗った冷ややっこも大豆の味が濃くておいしい。炭で焼いた焼き鳥は香ばしく、皮がぱりっとしていた。メニューをみるだけでわくわくするほどおいしそうなものばかり。オーナーの食やお酒に対する愛情がひしひしと伝わってくるこだわりのお店だった。

その時一緒に参加した上司は私より10歳ほど年上だった。彼は仕事がよくできて自分のことはあまり語らない寡黙な人。といってもコミュニケーション能力に欠けるわけでは決してなくいつもだれかの話に耳を傾けていた。時々発する彼の言葉は温かく、思慮深かった。そんな彼は社内での人望も厚く、上司からも一目置かれていた。同僚や部下から信頼されていた。

その日も彼は静かにお酒を飲んでいた。酔いが回るにつれ愚痴っぽくなる上司や同僚のおしゃべりに耳を傾けながらも、そこには彼だけの静かなゆっくりした時間が流れていた。

私がお酒を飲まないと知ると彼は「残念だな。ここの料理は日本酒とよく合うのに…」と呟いた。おいしそうに料理を食べながら日本酒を飲む上司の姿を見ているうちに、彼の飲んでいるお酒が無性に飲みたくなった。そしておちょこを一つもらい日本酒を分けてもらった。

口に含んだときはキリッと辛口なのに喉を通るときほどよく甘みを感じる。一緒に食べた枝豆やお刺身の味がより濃く深く感じられた。お酒には料理を引き立てる役割があることを初めて知った。

その日初めてアルコールを口にする私を見て上司は静かにおちょこを少しだけかかげて「乾杯」と言ってほほ笑んだ。

その静かな声を聞きながら「乾杯」もなかなかいいものかもしれないと思った。

個性豊かなクラスメイトと伝説のフランス語教師

パリで語学学校に通い始めた時、奇跡的に素晴らしいクラスメイトと素晴らしい先生に恵まれた。そのクラスは学校側の意図があってか、同じ国籍の生徒が重ならないよう一人ずつ在籍していた。アメリカ、ドイツ、スペイン、イタリア、フィンランド、台湾、タイ、韓国、そして日本人の私といった具合に。それぞれ違った母語を持つ私たちだったが、慣れない外国での生活にお互い不安を抱えていたせいかあっという間に親しくなった。個性派ぞろいのクラスメイトたちはそれぞれ全く違う価値観や個性を持ちながらお互いの違いを面白がり受け入れていた。今振り返っても毎日が笑いと喜びの連続だった。何がそんなにおかしかったのか、誰かのジェスチャーや片言のフランス語の発言にみんなで笑いころげた。

そしてそんな私たちそれぞれのキャラクターをより引き出し盛り上げくれたのは伝説のフランス語教師ローラン。口ひげをたくわえたその口元には常にユーモラスな笑顔が浮かんでいた。大げさな身振り手振り、ゆっくりと一言一言区切ったフランス語。黒髪とそれほど高くない鼻もアジア人の私には親しみがもてた。だれかが間違った発言をすると両手を広げ天を仰ぎ絶望の底に蹴落とされたような表情を浮かべ、正解を答えるとウィンクして嬉しそうに頷く。まるでコメディアンのようにジェスチャーたっぷりのレッスンに私たちは魅了された。

彼が一言一言区切りながらはっきりと発音するフランス語は不思議なことに語彙力のない私たちにもなぜか理解できてしまう。まさにお見事と言わざるを得ない超人じみたそのレッスン。神業である。いつでも彼のレッスンは笑いが絶えなかった。

親鳥の後を追いかけるひな鳥のように


ある日のレッスンで突然ローランが「この授業が終わったらみんなでパリの街を散歩しよう、その後みんなでランチをしよう!」と提案してくれた。もちろん学校のアクティビティとしてではない。友人としての提案だ。ローランはいつだってだれにだってサービス精神旺盛なのだ。そんなところも彼の授業が分かりやすい理由の一つかもしれない。

ローランのレッスンは楽くてあっという間に終わってしまう。そのことをいつも残念に思っていた、もっと長くこの時間が続けばいいのに、と。
しかしその日だけはレッスンが終わるのが待ち遠しかった。このレッスンが終わったら、ユーモアあふれる楽しいローランとプライベートで散歩に行けるのだ。クラスのみんなも一緒に。そう思うと早く街に出たくてうずうずした。

私たちは授業が終わるとすぐにパリの街に飛び出した。ローランはリズミカルにテンポよく次々とパリの街を案内した。細かい看板や標識に至るまでガイドブックには決して載っていないことをたくさん教えてくれた。彼の動きの一つ一つに、説明の面白さに目が離せなかった。私たちは舞台役者さながら説明し続ける彼の様子に魅了された。足早に進む彼に遅れまいと瞳を輝かせながら必死について行った。まるで親鳥の後をどこまでも追いかけるひな鳥のように。

パリのカフェで思い思いのランチを

2時間も歩き回っただろうか。さすがに疲れた私たちはカフェに入りランチをとることにした。サンドイッチ、クロックムッシュ、ポムフリット(フライドポテト)。パリらしい軽食をオーダーする私たち。ローランがビールを頼んだのをきっかけにみな思い思いのアルコールを注文し始める。未成年者はジュースを頼み、私もジュースにしようか迷っていると、ローランが「パナシェ」を勧めてくれた。パナシェとはレモネードとビールを1:1で合わせた飲み物。ソフトドリンクで割っているためアルコール度数も低くアルコールが弱い人でも楽しめる。「レモンの香りがポムフリットにもよく合うよ!」とローラン。

飲み物が運ばれてくるとローランが「Cincin!」とグラスを掲げた。「フランス語で乾杯って意味だよ!日本語だと言ってはいけない言葉なんでしょ?日本人に教えてもらったんだ」と私にウィンクした。

少しだけ日本語がわかる台湾人のフィリップが「えー、どんな意味なの??教えて教えて」と知ってるくせに冷やかしてくる。思わず吹き出す私。

そんな私たち3人のやり取りを見て他のクラスメイトも「なになにどんな意味なの?」と加勢する。ローランが彼らに「僕たち3人だけの秘密だよ」と言いウィンクした。

https://www.kirin.co.jp/customer/bi-ru3/tanosimu_02.html

輝く夏の「Cincin!」

夏のキラキラした日差しの午後、私は全員違う国籍の最高の仲間と最高の乾杯をした。「Cincin!」と軽やかに言い合うその声にグラスの重なる軽い音が重なり爽やかに響いた。

ローランが教えてくれたパナシェはビールのほろ苦さとレモネードの程よい甘みとレモンの香りがさわやかでアルコールが苦手な私でも全部飲みほしてしまうほどおいしかった。彼が教えてくれたようにレモネードの酸味がポムフリットにとてもよく合った。開放感あふれる夏の暑さにぴったりの飲み物だ。

自分の知ってる美味しい食べ物や飲み物を勧める。自分が生まれ育った町のことを詳しく伝える。そんなシンプルな親切心が私たちの距離をまた近づけた。

忘れられないあの夏、パナシェの泡がはじけてみんなの笑顔を金色に照らした午後、私は乾杯が大好きになった。

あれから15年以上の月日が流れた。私は最高のクラスメイトの誰一人ともいまだ再会していない。もちろん伝説の教師ローランとも。

時々ふと思う、またみんなで乾杯できるかな。それぞれ違う国に住んでいる私たちには難しいかもしれない。

それでも私はビールの泡を見るたびに、夏の金色の日差しを感じるたびに、いつかまた再会しよう、そしてまたみんなで乾杯しよう!と一人心の中で呟いてみる。

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