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母との和解とトラウマへの気づき

母との和解

正月、実家の食事会で、軽いノリで、女の子として、在日韓国人として、育つなかでの葛藤についての話になった。それを聞いた母が「私がよくなかったのかもしれない」とぽつり。これまで母からは「そんな風にしたつもりはないけどな〜」というような答えしか返ってこなかったので驚いた。母は、育児を始めた頃にどれだけ大変だったか、大変だったから、娘にとって良くない関わりをしてしまったかもしれないと、ずっと気になっていた、と言った。母もまた、民族(これは戦争による分断に起因する)やジェンダーについての葛藤を抱えてきたのだ。

それをきっかけに、(あくまで私の記憶において)小さい頃から「こうしなければならない」ことが多かったこと、四人きょうだいの長女として、いつも重荷があったこと、評価はしてもらえたけどありのままの自分をかわいいと言ってもらう機会が少なかったことなど、言葉と涙が溢れてきて、それを伝えた。責めたかったわけではない、私に癒しが必要だったし、母がいまそう言ってくれるということは、私がそれを伝えて癒されることが母の癒しにも繋がると直感的に感じたからだ。自分が母親になったからそう思えたのだと思う。

母は私の手を握って「ごめんね」「今日この話しができてよかった」「ありがとう」と言ってくれた。この触れ合いがずっと必要だったと、長い間満たされなかった心の一部分がストンと落ち着くような感覚を覚えた。

痛みは癒しの可能性

怒り、不安、悲しみ、恐れ。身体的な痛みも、感情的な痛みも、癒しが必要な部分を教えてくれる、かけがえのない感覚だという気づき。このことについては数日前のnoteにも書いた。

年始は地震や人間関係でも痛みを感じることが多かった。母との件もあり、その痛みの中に癒しの可能性を感じていて、その様子を伺っているような数日だった。

The Wisdom of Trauma

自分の心と向き合うモードで日常の小さな気づきを積み重ねていくことで、痛みがだいぶ和らいできた今日、カナダの精神科医ガボールマテ氏によるドキュメンタリー映画『The Wisdom of Trauma』を観た。(以降はネタバレが含まれるので、映画をご覧になる予定の方は要注意。)

この映画はトラウマを扱うが、注意喚起や恐れを増幅させるのではなく、むしろトラウマによるさまざまな依存に対し、それを排除せず空虚感を愛で満たしていくような内容だった。

氏は、人間にはふたつの繋がりが大切で、ひとつは他者とのつながりである「愛着」、もうひとつは自分の感覚や直感を信じて行動するための「自分自身とのつながり」で、幼少期に、他者から愛されることを優先するために「自分自身とのつながり」を麻痺させることで起きるのがトラウマであると言う。

依存症は痛みに対する自然な反応。痛みをなくそうとすると、それをなくすことにばかりエネルギーを注いでしまう。トラウマの原因をなくすのではなく自分の器を広げてそのためのスペースを作る。クライエントとのセッションの中で、出た発言が印象的だった。

「痛みは不要なもの?」
「いいえ、痛みがあったから、その奥にあるものに気づけた

映画を観ている間じゅう涙が流れていて、年始から感じている、全ての痛みが、大小関係なく自分、あるいは社会の過去の記憶から来ていると感じた。頭で理解しただけでなく、身体が理解したように感じ、映画を観終わったあと、お腹や背中、胸のあたりの痛みがすっかりなくなっていた。

痛みも愛から

「どうして自分や家族に厳しくなってしまうんだろう。」それは愛ゆえ。「どうして怒りや不安が現れるんだろう。」それも愛ゆえ。感情の玉ねぎをむいてむいてむききると、そこに愛がある。そう信じられると、ネガティブな感情にさえあたたかい愛の感覚を味わえる。怒りや不安を感じた時に、相手に何を伝えたら良いのかも。伝えるならば、正しさではなく、ありのままの感情と、その奥にある愛を。(いやはや、難しいんだけどね。)

はだかの愛に戻ればいい

トラウマは連鎖する。映画のなかでは黒人の母親が奴隷制度の記憶から泣きながら息子を鞭で打ったというエピソードが語られていた。母が私に与えた教育は、母が自分自身が体験した苦労や痛みで、私が将来苦しまないで済むようにという思いからだった。母と、痛みを共有し、ふたりでそれについて話し、赦し、泣くことが出来たこと。そこに母の愛を感じたし、私もまた、子ども時代の親への無償の愛着が救われた気がした。

準備をさせてくれたNVC

実はこの話題は昨年夏から秋にかけた参加した、NVC(非暴力コミュニケーション)のOngoサークルという12週間のプログラムでも取り扱った内容だった。ペアワークの中で母との関係を取り上げて、母役をしてくださった方は母と同じような言葉を私にくれていた。「あの時はママもはじめての子育てで大変で、あなたに良くないことをしてしまったかもしれない。ごめんね。」と。

「ママ、ママは私が生まれて幸せだった?私はママを幸せにできた?」

ペアワークで私が母に一番確かめたいこととして出てきた言葉だ。全ての子どもは親の愛と幸せを無条件に望む。私もそんなひとりの子どもだった。お正月は他の家族とのやりとりもあり、直接それは聞けなかったけど、たぶん私はきっと、年末よりは母を幸せにできたと思う。心の中の小さな私が誇らしげな顔をしている気がする。

さいごに

長く書いたが、私は母との関係において、基本的には愛されてることを感じてきた。おそらくどんな人でも持っているレベルでの痛みの話だと理解してもらいたい。(だからこそリアルで取り扱うことが出来たんだろう。)随分大人になってもまだ、母の愛が欲しくて涙する小さな自分がいる。これは自然なことだ。映画の中でも「トラウマは家族からはじまる」と言われていた。子育ては育ち直し。「自分自身とのつながり」はマインドフルネスでやっていることそのものだと思う。

「家族」「子育て」「自分自身とのつながり」、私の中の大きなテーマとして引き続き向き合っていきたい。そのことが母親として支援者として出来ることを増やすと信じている。このような体験は誰かの痛みを刺激するかもしれないが、未来の私を含む誰かの癒しを助けることもあるかもしれないと思い残す。(痛みは癒しの可能性という仮説のもとに。)


ありがとうございます☺️